「ふっ……そうだね。大正解だよ!」

男性は素早くポケットから、手のひらサイズのカプセルを取りだし、それを地面に叩きつけた。

瞬間、部屋は白い煙に包まれる。

「ちょっ、何だこれ?ごほっ」

「チョークを粉にした物ですよ……っ、ごほ。ウィル、下の雑貨屋売り場を調べてください。本物の男性が閉じ込められて……ごほっごほっ!」

喉に入り込む粉に、上手く呼吸が出来ず喉を押さえる。思ったよりも量が多い。

「おい、アマネ!大丈夫か?うっ、ごほごほ!」

声を大きく出そうとしたせいで、ウィルは粉を大量に吸い込む。そのせいで肺の辺りが痛んだ。

「ウィル―!!」

ウィルの声が聞こえた方に駆け寄ろうとしたが、ヒヤリとした物が首筋に当たり、動きを止める。

そして、溝内に小さい痛みが走ると、アマネの意識は途絶えた。

「くそっ、窓を開けないと……ぐっ」

ウィルは手探りで何とか窓を見つけると、勢い良く開ける。すると、風邪にのってチョークの粉は窓の外へと出ていく。

「ごほっ………はぁ……はぁ。アマネ!」

アマネがいる筈の方を振り返ると、そこはもぬけの殻だった。しかも、ウンディーネの雫も消えている。

「……一体、どこに…………くそっ!」

ドンと側にあった棚を殴ると、急いで部屋を出る。


「…………」

「そんなに睨まないでくれないかい?スプーンを首筋に当てただけじゃないか」

先ほどアマネの首筋に当てられていたのは、雑貨売り場に置いてあった食器の一つだ。

「その後、溝内に一撃いただきましたが?」

「ああ、それはすまないと思ってるよ。けれども、君は普通の女性よりタフみたいだし、僕が普通に二人きりになりたいと言っても、来てくれないと思って。……………でも、まさかほんの一分で目が覚めるとは思ってなかったけど」

黒の貴公子は眉を下げて肩をすくめる。アマネの気絶時間があまりに短すぎて、うっかり川に落としそうになった。

「後、いい加減私を降ろしてください」

横抱きされているアマネは、いつもの無表情で黒の貴公子を見上げる。

「つれないね。こういう状況ならもっと赤くなったり、慌てたりするのが普通の女の子だよ?こ・ね・こ・ちゃん?」

「……」

カチャッと拳銃を黒の貴公子の額に向ける。

「シバきますよ?」

「いいね、そそられる」

その笑顔にイラッとしたアマネは、右肘で黒の貴公子の肩を押しのけ、転がるように地面へと降りると、すぐに拳銃を発砲した。

やはり、黒の貴公子はさらりと避けたが。

「私で遊ぶのは止めてください。撃ちますよ?」

「もう撃ってから言う言葉じゃないと思うけど?後、ここ橋の上だから気を付けてね」

ガス灯が照らす橋は、雑貨屋から少しだけ離れた場所にある。霧が少しだけ出ているので、視界は良いとは言えないだろう。

「私と何の話をしようと言うんですか?残念ながらウンディーネの雫を取り返し、貴方を警察に引き渡すことにしか興味はありませんが」

「君はさ。どうして僕がこのコを狙ったのか、知っていたような口調だったよね。それに、僕が出した予告状は君にしか分からないようにしたことにも気付いていた。何故だい?」

「予告状は私が取った新聞の裏に、手書きで書かれていました。そして、前に警部に見せて頂いた予告状の筆跡と一致しました。だから、貴方のだと分かったんですよ。ウンディーネの雫とセイレーンの涙が姉妹石だと言うのは、昔の新聞を漁っていた時に一瞬だけ見たことがありましたから」

アマネは一度見聞きしたことは絶対に忘れず、それが例え一瞬のことでも覚えてしまえる。

探偵としては役に立つ能力だが、アマネにとっては一種の呪いのようなものだった。

「貴方に負けた後、私は貴方のことを色々調べたんですよ。フランスでの貴方の活動場所、狙った宝石、その宝石にまつわる理由。それを知って思いました。ただ美しく値の良い宝石よりも、持ち主のいる宝石しか貴方は狙わない。人の物だから、貴方は欲しがったのでしょう。まるで、子供のように」

「……だって、人の物だからこそ美しくなるから。その宝石に詰まった思いほど、美しい物はないからね。それは、女性も同じだよ。愛する人と共にいる女性はとても幸せそうで、とても美しくなる。けれども、女性を手に入れても、僕の心には穴が空いたままなんだ」

黒の貴公子はシルクハットを取ると、アマネへと近付く。

「貴方は、紳士の皮を被った臆病者ですね。空いた心は何をしても埋まりません。人は、その喪失感を持ちながら生きていくんです。貴方が何を失ったかは知りませんし、興味もありませんが。私だったら、穴を埋めることよりも、その穴があっても平気なくらいの大事なものを探しますよ」

失った物の代わりなど、存在しないとアマネは思う。それが人であれ物であれ、自分の心に刻まれていたものは、替えの効かないただ一つのものだからだ。

失った傷を抱えながら、それでも生きていくのが、生きていけるのが人だ。

「誰かのものを取っても、それは自分のものにはなりません。それを、貴方は分からないほど愚かではないでしょうに」

「君も僕と同じ、心に穴が空いてる。いや、穴じゃなくて、傷かな?最初に君を見た時、何となく僕と同類の匂いがしたんだ。けれども、僕ほど深い穴は空いていない。それは、彼が君の側にいるからかな?」

黒の貴公子の意味深な言葉に、アマネは訝しげな視線を返す。