「奈央は、実は子供の頃に、シンガポールに住んでいたんです」
「!」
「あ、だからって、妻も僕もちゃんと日本人なんですけどね。僕の仕事の都合で。奈央は憶えていないでしょうけど、あの頃は妻も一緒で、家族三人で、幸せに暮らしていました」
「…、」
「…だから、またその時の幸せが、欲しくて」
「!」
日向さんの言葉に、急に不安になる俺。
心臓が、ドクドク…と、今度は緊張から嫌な音に変わって、立てだす。
だって俺には…もうそこまできたら…日向さんの言おうとしている言葉が、嫌でもわかってしまっているから。
だけど…
「……あの、それって…どういう…」
「…」
不安で、言ってほしくなくて…行ってほしくなくて…でも、モヤモヤしたままじゃいられなくて。
たまらずにそう聞いたら、また、日向さんが口を開いて言った。
「…来月の中旬に。また、シンガポールに赴任することが決まりました」
「…、」
「そこに、奈央を一緒に連れて行きたいんです」
「!」
「で、今度は2人で。構ってあげられなかった時間を、少しずつ埋めて…幸せに暮らしたい」
今、僕が父親としてできるのは、それくらいですから。
そう言って、「だから、このプリントは必要ありません」と。
そして、「急で申し訳ない」と俺に向かって頭を下げる日向さん。
…佐藤先生だったら、ここで何て言うのか…。
俺には何て言えるのか…。
彼女にとったらとてつもなく幸せな展開…なんだろうけど…俺には…
「…そう、ですか」
「…」
「そ、そういうことなら…よかったです、」
「…」
そう言って、俺は…そのプリントを鞄に仕舞う。
急すぎる。いくら何でも、急だろ…。
…その後、俺は日向さんと何を話したのか…記憶にないまま…。
やがて社長室を後にした…。
…来月って。
今月だって、あともう三日もない…。

