「―――――――ルーク!!!!!」


どこかから、誰かの叫ぶ声が聞こえました。ルナがパッと口を手で覆いました。「ルークさん」と呟いたのが聞き取れました。
女性が剣を引き抜き、「虎」の背中から鮮血がぶわっと噴き出しました。
その女性が一瞬の後に倒れていました。血を流しています。ずっと見ていたのに、いつの間にか「山猫」が彼女の真後ろに立っていたことに気がつきませんでした。今まで一度も返り血を浴びたことのない「山猫」が、初めて服を真っ赤にしていました。瞠目し、肩で息をしています。こんなに取り乱した「山猫」を見たのは初めてでした。
突然「虎」がフランベルクを振り下ろし、総大将の首を貫きました。総大将が口から血を吐き出し、白目を剥いて動かなくなりました。死にゆく中でも、敵の大将を討ち取ったのです。
剣を握る手が緩み、パタリと体の両脇に落ちました。ゆっくり傾いでいく戦闘番長の姿を何故だか美しいと思いました。「山猫」が首を振りながら何か呟いたようですが、小さすぎて聞こえません。
鈍い音と共に、「虎」が地面に倒れ込みました。土が斑に赤く染まり、鉄の臭気が広がりました。彼はそれきりピクリとも動かなくなりました。
「山猫」は棒立ちになったまま固まっていました。目の前の光景が信じられないとばかりに見つめています。今にも「虎」が起き上がって、「ドッキリ成功!」と笑うのではないかと思っているようです。僕も正直そう思いました。質の悪い悪戯だと思い込もうとしました。しかし「虎」は起き上がりません。
横でルナが崩れ落ちました。地面に伏す寸前で何とか抱き止めました。彼女は青い顔をして、「ノブさん」とだけ言いました。そして完全に気を失いました。
ハルタは何かをぶつぶつ呟いています。耳をそばだてると「これは悪夢だ」と繰り返していました。至る所から呪文のような言葉が聞こえてきました。唱えているのはハルタだけではないようです。
僕は呆然とシゲを見下ろしました。何も知らずに死んだ彼は、ある意味幸せだったのかもしれません。向こうの世界で「虎」に出会ったら、彼は何と言うのでしょうか。
暫く誰も動きませんでした。敵の海賊達でさえ、風景の一部のように固まっていました。
「山猫」が緩慢な動作で膝を折り、「虎」の傍に屈みました。
事切れた「虎」の体を大事そうに抱き上げ、「山猫」は船の方へ歩いていきました。血が点々と残り、道を敷いています。敵方の真横を通り過ぎても、無防備な参謀総長は誰からも攻撃されませんでした。



***

片手でそっとドアを開けた。見慣れた部屋はやけにだだっ広く、寂しく見えた。
まだ微かに温もりの残る体を横たえた。手が血糊で滑った。赤黒い色と白地が混ざり合い、彼の服は少年が好んだ臙脂色みたいになっていた。
今は何にも邪魔されたくなかった。たとえ戦いの最中であろうと、そんなことはどうでもよかった。
「……こんなもの、貴方が貼る必要はなかったのに」
そう言いながら少年の鼻に貼られていた絆創膏をゆっくり剥がした。怪我などどこにもなかった。
自分が右目に負った傷とノブの傷のことで、少年は自身を責めていたのだろう。少年だけ顔に傷を負っていないのが嫌だったのだろう。しかし、少年は誰よりも深く心に傷を負った。それだけで十分じゃないか。そんなところも少年らしいのだが。
冷たくなっていく額にそっと唇を押し当てた。それが別れのキスだとは考えないようにした。頬が濡れた。知らぬ間に涙が溢れていた。
「……お休み、ルーク」
血の気の引いた顔に、あの時の笑顔が重なった。海へ出るのが正しいという自信に満ち溢れたあの時の顔。自分やノブの背中を優しく押してくれた笑顔。一時も忘れたことなどないし、これからも忘れない笑顔。どんなに輝いて見えたことか。
傍を離れたくないという思いを振り切り、彼は遂に立ち上がった。自身のハンモックの傍に立て掛けてあった歪な形の剣を手に取った。剣ではない、非常に大きな刀だ。これを手に入れるのには苦労した。
彼は静かに部屋を出ていった。

***



戻ってきた「山猫」は、不思議な形の剣を手にしていました。ウカミさんが使っていた「カタナ」の一種に見えましたが、それにしても随分と大きいです。
ハルタが呟くのを止め、息を呑みました。
「あれ……あれは次郎太刀!?どうしてここに…」
説明を請うと彼はすぐに話してくれました。「ジロウタチ」は異国のカタナで、そのあまりの大きさ故に誰も扱うことが出来なかったと言うのです。何故「山猫」が持っているのか訝っていました。
「山猫」は巨大なジロウタチを鞘から抜き、呆然と立ち尽くす敵方に向かって薙ぎ払いました。土埃が舞い上がって衝撃波のようなものとなり、敵陣を襲いました。触れてもいないのに体が真っ二つに斬れ、敵は瞬きする間に全滅してしまいました。何が起きたのか理解するまでに相当な時間を要しました。
「山猫」は顔色1つ変えませんでした。血などついてもいないカタナを癖で打ち振り、優美な仕草で鞘に収めました。
恐ろしい眺めでした。地獄絵図より酷いです。無人島が死の島と化し、辺り一面に死体が転がっています。
ルナが身動ぎしました。気がついたようです。目を半開きにして「山猫」の方を見、ハッと見開きました。彼女にもジロウタチが分かるようです。
殲滅した敵群を暫く眺めてから、傍にいた手負いの特攻隊員――なんと彼は丸さんでした――に手を差し伸べて、「山猫」が微笑みました。悲しい笑みでした。
「さあ―――戻りましょう」
生き残った船員は皆その声を聞きました。傷ついた仲間に手を貸し、死んだ仲間を背負って、船に戻りました。シゲの遺体はハルタが抱きかかえました。
僕はルナを支え、ゆっくり歩きました。「山猫」は何故一撃で敵方全員をも仕留められるような実力を持っていながら今まで発揮してこなかったのか、そもそもあのカタナはどこで手に入れたのか。本人に訊かなければ分からないようなことを悶々と考えていました。
この先が不安で仕方ありませんでした。


その日の夕食会はひっそりと進みました。華やかな食卓で誰も口を聞かず、ただ黙々とご馳走を食べています。どのテーブルからも人が減り、寂しそうでした。
僕達のテーブルからも数人が消えていました。女子班も半分近い4人に減ってしまいました。僕の班の犠牲者はウカミさんとシゲだけでしたが、丸さんは大怪我をしてこの場にいませんし、看病をする為にタニさんもいませんでした。神崎さんとハルタ、それに僕の3人だけが席についていました。
しかし、そんな僕達の席も上座に比べればまだ賑やかに見えました。
1人ポツンと真ん中の席でいつも通りに食事をする「山猫」など、とても見ていられませんでした。両側の空席がまた生々しく映り、彼の孤独感を更に引き立てていました。元は「豹」が座っていた席に座るその姿を見ていると、何故か両脇の椅子を撤去したくなりました。そうすれば少しは寂しくなくなるのではと思いました。

マルクル大佐にこのことを申し上げるのも、むごいように思えました。どのみち黙っていてもすぐ知れ渡ることでしょう。
もう少しだけ、これは悪夢なんだと自分に言い聞かせていたいと思いました。


―酉の章 完―