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 彼に嘘をついた罪悪感と、見捨てられてしまった絶望感で、私は部屋の中で声を上げて泣いた。もう、大人だというのに。恥も外聞も知らずに、私は泣き続けた。子どもの頃のように、泣くことで助けてくれる人なんて、もういない。大切な人は、私の前からいなくなってしまったのだから。

 私はこの期に及んで、甘えを捨てきれなかった。たとえ上手くいかなくても、優しい彼なら許してくれる。彼さえ許してくれるならば、私はそれでよかったから。

 私は、絵を描くことに向いていない。ふとしたことでスランプに陥ってしまうし、精神的にも未熟であるし、なによりもまず技術が無い。絵を描いて生きる道を志しはしたけれど、心の奥底では無理だと決めつけてしまっていた。彼が、応援してくれていたというのに。

 唯一の支えであった彼がいなくなった今、私はもう、再び立ち上がることもできなかった。涙は枯れてしまい、膝を床に擦りながら部屋へと戻る。キャンバスの上に、あの日見たひまわり畑が描きかけのまま残っている。もう、それを見ることすら嫌だった。

 彼のあの落胆した目を思い出すたびに、枯れてしまったはずの涙が溢れ出してくる。二度目の浪人が決まった時、お母さんもあんな表情を浮かべていた。私に失望した、目。普通の大学へ入れば、一生あの視線を向けられるのかもしれないと、私は怯えた。だから美大へ入るために、必死に絵を描いた。そうする以外に、道はなかった。

 私というのは、そういう人間だ。ぬるま湯に浸かり続けてきたから、土壇場になって本気を出すことができない。いつまでも、甘えてしまう。育ってきた環境がそうしたのではなく、これは私自身の問題なのだ。

 今も、この絵を完成させれば、また彼が戻ってきてくれるんじゃないかと、甘い考えを持っている。どんなに優しい彼でも、嘘をついた私のところに戻ってくる保証なんて、どこにもないというのに。

 不意に私の視線は、部屋の隅に置かれているバッグにそそがれる。その中には、彼がプレゼントしてくれた時計が、絵の具で汚れてしまわないように大事にしまってある。私はバッグのそばへ行き、中にある時計を取り出した。この時計を見れば、彼と過ごした瞬間をすぐに思い出すことができる。けれど時間は止まってはくれなくて、ただ無慈悲に離れていってしまう。

 私はその時計を、強く胸に抱いた。

 もう一度だけ、会って謝りたい。許してほしいとは思わないから、謝りたかった。嘘をついたこと、甘えてしまったこと、迷惑をかけてしまったことを。大切な人だから。

 私なんかのために時間を使ってくれたことを、もっと深く受け止めるべきだった。それが当たり前じゃないと理解できていれば、あんな最低なことをやろうなんて思わなかった。

 再びキャンパスへ近付いて、バケツの中に突っ込んだ筆を取る。指先が震えていたけれど、もう支えてくれる人はいなくなったけれど、それでも私はしっかりと握った。いつかの私は、消去法だけれど、絵を描いて生きていきたいと決めたのだ。そんな過去の私に、恥ずかしい姿は見せられない。そして、応援してくれた人がいる。こんな私を支えてくれてありがとうと、悠くんにお礼が言いたかった。

 あんなに限界を感じていたのに、いつのまにか眠気は吹き飛んでいた。

 私は、私の弱い心と向き合う。強く、心に誓った。



 あの日、私のアトリエに満開の桜が咲いた日。弱い自分に負けたくなくて、時間ギリギリまで作品の完成度を高めようと努力した。結果的に満足のいく作品ができたけれど、時計を見るのを忘れていて、提出時間には間に合いそうになかった。

 本当は、ちょっとぐらい遅れても、教授は許してくれる。完成していなくても、成績は下がるけれど、少しだけ期限を伸ばしてくれる。それでも完成度と期日にこだわったのは、弱い自分に負けたくはなかったから。

 自分で決めた道だから。夢も目標もない私が決めたことだから、中途半端で終わらせたくはなかった。

 けれど。どうして私は、こんなにも弱くなってしまったのだろう。あの時の私なら、血反吐を吐いてでも絵に向き合ったというのに。

 それはきっと、悠くんのせいなんかじゃない。弱い心を持った私が、彼に依存しようとしたから。依存していれば、何も考えなくていい。彼に身を任せていれば、それでいい。もう、辛い思いをしなくてもいいから。

 もし叶うのならば、もう一度だけ初めからやり直したい。今度は依存なんかせずに、対等に彼と向き合いたい。そのために、私はこの絵を時間通りに提出しなければいけない。もう間に合う時間じゃないけれど、それでも美大へ向かう。

 あの時も、私は同じ道を走った。間に合わないとわかっていて、泣きながら地面を蹴っていた。そんな時に、私のやや前方に車が止まった。

 そして、彼は言ったのだ。

「梓」

 彼はもう一度、私の名前を呼んでくれた。

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 彼女ならば、僕がいなくなれば再び絵を描くと思っていた。だけど時間には間に合わず、提出が遅れて、一度現実を見ればいいと思った。そうすれば反省をして、今度こそは真剣に取り組んでくれると考えたから。

 けれどアパートへ帰って、車でもう一度アトリエへ戻り、見えない位置から様子をうかがっていた。そういうところが、甘いのだろう。完全に悪に徹し切れない、中途半端なところが。

 まだ車を走らせても間に合う時間に出てきてくれて、僕は心底安心した。大きなキャンバスを持って走る梓の背中に、心の中で頑張ったねと伝えてあげる。相変わらず、顔は涙でぐしゃぐしゃだけれど。

 僕はあの日と同じように、走る梓の少し前に止まり、今度は「梓」と名前を呼んであげる。すると彼女は立ち止まり、僕の方を向いた。

 もう何も言わずに路肩へ停めて、梓と一緒に絵を持ってあげる。そのキャンバスは、前に持ったキャンバスよりも、とても重く感じた。

「ごめん、梓。酷いこと、言っちゃって」
「あっ……」

 キャンバスを持つ梓の瞳が大きく揺らめいたかと思えば、次の瞬間からは大粒の涙が溢れ出した。けれど重たい絵を持っているため、拭うこともできずに頬を伝って地面へと落ちていく。

 今の梓は、誰がどう見ても、やりきったという表情を浮かべていた。だから僕は、これを運び終えて、たとえ合評会で酷評を言われたとしても、褒めてあげなきゃいけないと思った。他の誰でもない、僕が一番彼女の頑張りを知っているから。

 きっと梓なら、大きな夢を見つけられる。そしていつまでも、彼女の夢をすぐそばで応援できると、一つも信じて疑っていなかった。