二つの砂時計を買ってもらった頃、家族との仲がよかったわたしは砂時計にはまっていた。

小学校三年生くらいの頃だった。

三分間の白い砂時計と、五分間の水色の砂時計は、ただ眺めるためだけに買ってもらった。

カップにまみれたテーブルの上で浮いているそこそこ洒落たデザインのそれらは、

今となってはカップ麺が戻るのを待つためのものになっている。


なんともいえない焦りのようなものを感じながら、落ち続ける白い砂を眺めた。

最近、時間の流れに気づくと焦りのようなものを感じるようになった。


やがて砂がすべて落ち、寂しさのようなものを感じながらカップ麺の蓋を残りの半分ほど開けた。