そのまま彼女に手を引かれ、玄関をくぐり外へ出ていく。

 仕方ないといったように、朝陽はため息をついた。

「ところで、どこに行くの?」
「どこに行きましょうか」
「決めてなかったんだ」
「とりあえず朝陽さんは、外の空気を吸った方がいいと思いまして」

 そう言って乃々はニコリと笑う。

 朝陽はデートの場所はどこがふさわしいのかを考えたが、浜織の娯楽施設は駅前にしかない。どうしようかと思案していると、彼女は先に歩き出した。

「乃々は外を歩くだけでも楽しいですよ」
「え、それだけでいいの?」
「はい。乃々はそういう女の子なので」

 乃々がそう言うのならと、朝陽はそれ以上余計なことを考えるのをやめる。遅れて彼女の後をついていった。

 彩は心臓病を患っていたため、妹である乃々も身体が弱いのかもしれないと朝陽は心配していたが、彼女の笑顔を見るにとても元気な子なのだろう。病気とは無縁そうな女の子だ。

 歩きながら、こういうのは男から話題を振るべきだと考えた朝陽は、前を歩く乃々に話しかけた。

「綾坂さんから聞いたんだけど……」
「それ、やめましょうか」
「え?」

 急に乃々は立ち止まり、彼女は朝陽の方を振り返った。

「綾坂さんって呼ばれると分かりづらいので、彩さんって呼んでください」
「あ、うん」
「その方が、お姉ちゃんも嬉しいと思うので」

 そう言って彼女は笑みを浮かべたが、その笑みの意味がわからなかった朝陽は首をかしげる。乃々は手のひらを前に出し、話の続きを促した。

「えっと……彩さんから聞いたんだけど、乃々さんっていろんな人から告白されてるんだよね。確か五人の人から」
「そうですねーその記録は先日更新されまして、絶賛六人目の方に交際を申し込まれました。まあ振ったんですけどね」

 朝陽は驚きを通り越して呆れてしまう。こんなにも可愛くて人当たりが良く、そして知性的な面を合わせ持つちぐはぐな彼女は、周りの異性から見れば圧倒的に目を惹く好意の対象なのだろう。

「それはすごいね……どうして全員振っちゃったの?」
「んー、やっぱりお姉ちゃんと比べちゃうからですかね。お姉ちゃん以上に優しくて純粋な人じゃないと、乃々は将来仲良くやっていけないと思うので」
「彩さん以上となると、ちょっと難易度が高そうだね……」
「朝陽さんもお姉ちゃんの純粋さが分かりますか」

 乃々と同じぐらい理解しているとは言えないが、朝陽は頷いた。自分を救ってくれた紫乃のために一生懸命になれるところや、嘘をつけないところ。ずっと、彼女は辛かったのだろう。嘘をつき続けることが平気な人であるならば、時折見せる辛そうな表情を浮かべなかったはずだ。

 朝陽の中で、自己犠牲という言葉が浮かぶ。綾坂彩という女の子は、誰かが気付いてあげられなければとても危うい女の子なのだ。

「朝陽さんは、それほど異性からモテなさそうですね」

 ハッキリと言われてしまい、朝陽は苦笑する。

「そうだね、僕も自覚してるよ」
「積極的になれない性格をしてるんじゃないでしょうか」
「すごいね。僕たち今日会ったばかりなのに、そんなことまでわかるなんて」
「乃々は観察眼が鋭いので、考えていることはお見通しなのですよ。さては紫乃さんと昔に何かありましたね?」

 乃々の瞳はどこまでも澄んでいて、まるで心の中を見透かされているように思えてくる。彼女の前で隠し事をするというのは不可能なのだろう。そう悟った朝陽は、昔のことを包み隠さず話すことにした。

「昔、紫乃が何も言わずに引っ越したんだよ。それが結構トラウマになってて、もしかしたら嫌われてたのかもって考えるようになったんだ。そういうのが染み付いちゃって、今みたいな性格になったのかも」

「なるほどです。まだ小さい頃だから、仕方のないことですね」

「ちょっと考えたら、そういうわけじゃないってわかるのにね。子どもって、本当に単純だ」

 また、朝陽は苦笑する。

 紫乃の気持ちを少しでも考えてあげられていれば、ただ単に言い出せなかったという答えに行き着くというのに。

「まあ、きっと乃々たちに見えている世界は、人それぞれで違うんですよね」
「どういうこと?」
「いえ、今のはあくまでも乃々の想像上のことなので。あまり気にしないでください」

 また何もかもを分かっているというように、彼女は話をはぐらかす。実際乃々は全てを理解しているのだろう。朝陽の知らない、全てのことを。

 しばらく歩いていると公園を見つけ、乃々が「あそこのベンチで休憩しましょうか」と提案した。朝陽はそれに頷き、誰もいない公園のベンチに腰を下ろす。

「ごめんなさいね、朝陽さん。お姉ちゃんがいろいろと迷惑をかけちゃいまして」
「いや、迷惑だとは思ってないよ。何も、誰も悪いことなんてしてないんだから」
「でも、お姉ちゃんがここに来なければ、朝陽さんが悩むことなんてありませんでしたよね?」

 確かにそうだと朝陽は思う。

 彩が来なければ、紫乃が来なければ、いつもと変わらない夏休みを謳歌していただろう。たまに珠樹と遊んで、夏休みの宿題を終わらせるような、何も起きない安穏とした日々。

 もしかすると、この先朝陽と珠樹が付き合っていた未来もあったのかもしれない。そういう意味では、一番彩のことを迷惑だったと考えるのは、珠樹の方だ。

 だけど、それでも楽しかったと笑うのだろう。それが彼女の本心で、珠樹という女の子なのだから。

 一度、大きく息を吸う。

 そうすることによって、夏の暑い空気が体内を巡り、自分が今ここに生きているのだということを実感させた。耳を澄ましてみれば、遠くでは子どもたちの笑い声。聞こえているはずなのに、今まで聞こえていなかった蝉の声。

 夏の空を見上げると、紙飛行機を飛ばしたように白い雲が真っ直ぐと走っている。その向こうにはきっと、星があるのだろう。

 風が吹き、草花の擦り合う音が聞こえてくる。サラサラと、公園の端に茂っている雑草が踊るように左右に揺れていた。

 きっと彼女たちと出会わなければ、朝陽は今もそれらを知らないままだった。紫乃と出会わなければ、彩が繋いでくれなければ。

 彼女が繋いでくれなければ、珠樹からの好意にも気付かなかった。目に見えないものを、知らずに過ごしてしまうところだった。紫乃の想いも、全て。

 ふと頭の中に、あの日教わったフレーズが蘇る。それが、彼女たちから朝陽の教わったものだった。

「一番大切なものは、目には見えないんだ」

 その突然の朝陽の言葉に、乃々は首をかしげる。しかし聡明な彼女は、すぐに次の言葉を紡ぐ。

「サンテグジュペリ、ですか?」
「よく知ってるね」
「昔、絵本で読みました。でもそれがどうかしましたか?」
「彩さんがここに来てくれなかったら、あの日の宿題を忘れたままだったから。だから、迷惑だなんてちっとも思ってないよ」

 きっと朝陽の心のどこを探しても、迷惑だなんて感情は見つからない。そこにあるのは、感謝の気持ちだけだった。

「一番大切なものは、目には見えない、ですか。そうですね。朝陽さんと、紫乃さんと、お姉ちゃんが触れ合った時間そのものを大切に思えているのなら、仮定の話を聞いたのは、ちょっと失礼だったかもしれません。ごめんなさい」
「謝らなくてもいいよ」
「いえ、乃々はやっぱり、謝らなきゃいけません」

 いたずらがバレた子どものような声音で、乃々は言う。

「乃々が今しようとしていることは、これっぽっちもフェアなことじゃありませんから」
「フェア?」
「誰も、一番大切な人を失いたくはないんです」

 その彼女の言葉を朝陽はすぐに理解したが、心の内側から怒りが湧いてくることはなかった。

「僕に、そんな選択権はないから」
「でも、あなたがお願いをすれば、きっと紫乃さんは折れてくれますよ。乃々は、朝陽さんの気持ちが少しでもお姉ちゃんに向いてくれればと思って、紫乃さんから引き離したんです」
「そんなこと、僕はしないから。助かる道があるのなら、二人一緒に助けたい」
「そうですか……」

 そこで初めて、乃々は分かりやすい表情の変化を見せる。底抜けに明るかったその表情は、不安げな暗いものへと沈んでいった。

「……でも現実は、みんなが助かるほど甘くはないんですよ。ずっと病院に通っていた乃々は、それを知っています……お姉ちゃんが助かったのは本当に奇跡みたいなもので、多くの人はドナーが見つからずに亡くなって行くんですから」

 朝陽は、死と隣り合わせだった彩のことを考える。前向きに生きていたと言っても、毎日が不安の連続だったのだろう。

 いつ訪れるかわからない自分を救ってくれる心臓と、明日にはタイムリミットが来るかもしれない自分の身体。一歩でも手遅れだったら、彩も亡くなっていた可能性だってある。

 現実はそれほど甘くはない。

 彩が再びその身体へ戻ってくるには、紫乃の人格が退く必要がある。病院へ連れていけば、おそらく薬などを使って無理やりにでも彼女の人格は沈められるだろう。娘のことが心配な両親ならば、迷わずそうしてしまう。

 それはあまりにも残酷なことだから、朝陽も、きっと乃々も行いたくはなかった。一番平和的な解決は、紫乃が自ら退いてくれること。乃々の言った通り、彼女には心残りがあったから、この世界に未だとどまっている。

 ならば解決法は、紫乃の心残りを消すということだ。それが今のところ考えうる唯一の方法で、おそらく最善なのだろう。

 乃々の言う通り、みんなが助かるほど甘くはない。

 しかし、それでも朝陽は……

「それでも、最後の瞬間まで僕は諦めたくない。紫乃にも、彩さんにも笑っていてほしいから」
「……そうですか」

 そう呟いて、乃々は少しだけ安心したように息を吐いた。

「こんな酷いことを乃々が考えてると知って、朝陽さんは嫌いになりましたよね」
「そんなことはないんじゃないかな」
「どうしてですか?」
「むしろ、安心したよ。乃々さんでも、そういうことを考えるんだって」
「当たり前ですよ。乃々は、高校生なんですから」
「なんだか、僕らよりずっと大人っぽいなって思ったんだ」

 その言葉を聞いて、ようやく乃々はくすりと微笑んだ。彼女の言う通り、誰も、大切な人を失いたくはない。たとえそれが他方を切るという選択だったとしても、自分は咎めることができないと朝陽は思った。

 そんな意思の強さを、自分は持っていないからだ。

「そろそろ帰ろうか。紫乃が待ってるから」
「そうですね。お時間を取らせてしまって、申し訳ありませんでした」
「ううん。乃々さんのことが知れてよかったよ。これから一緒に、解決策を探そう」

 乃々は頷き、はにかむように笑みを浮かべた。

 現実は、みんなが助かるほど甘くはない。しかし、紫乃は奇跡にも近い確率で再びこの世界に触れることが出来ている。だから二人が助かる道はあるものだと、朝陽は当然のように考えていた。

 諦めなければ、たった一つの解決法が見つかるのだと、思い込んでいた。おそらく乃々も、そう考えていたのだろう。二人の意思は、この場で統一されたのだから。

 確かに、諦めなければ解決法は見つかったのかもしれない。だけど当事者である彼女が。奇跡にも近い確率でこの世界に触れられる彼女が、自らの手でハシゴを降りようとするなんてことは、考えてすらもいなかった。

 部屋へ戻ってきた朝陽と乃々へ向かって、紫乃は穏やかな表情を浮かべていた。もう、心残りなんてものはないというように。

「紫乃はもう、十分だから。だから、彩ちゃんが戻って来れるように、紫乃が消えてしまおうと思うの」