当初の予定通り三人は舗装された山道を歩いていたが、当然のごとく上り坂が多いため、紫乃は息を切らし始めていた。珠樹もそれに気が付き歩みを緩めるが、照りつける太陽の日差しが体力をどんどん奪っていく。

 数分前に珠樹がやっぱり引き返そうかと提案をしたが、紫乃は大丈夫だよと言って折れなかった。あまり人に弱みを見せるのが嫌なのだろう。彼女は昔からそういうところがあった。

 おそらく珠樹は山頂付近にある見晴台へ行き、紫乃に浜織の景色を見せてあげたいのだ。そこからは田舎の風景と一面に広がる海の全てが見える。よく二人で遊びに行くことが多いため、朝陽にもその考えは分かっていた。

 しかし体力的な面を考えるとそれは難しい。ひとまず今日はここまでという線引きと、紫乃に自分のせいだという罪悪感を抱かせないようにしなければいけない。もちろん朝陽は彼女に対して悪い気持ちを持っていないし、それはきっと珠樹も同じだ。

 だから一度朝陽が目配せをすると、全てを理解したのか珠樹は頷き、紫乃の手を取って微笑みかけた。

「もうちょっとで着くから、紫乃ちゃんも後一息だぜ!」
「あ、うん……」

 珠樹の笑みが伝染したのか、疲れを見せていた紫乃の表情がわずかに緩む。玉泉珠樹には、昔から周囲を一瞬で笑顔にする不思議な力があった。

 やがて短い橋が見えてくる。水が流れている音が聞こえてきて、熱を持っていた身体が涼んでいくのを感じた。

「うわぁ」

 橋を渡っている最中、紫乃は手すりにつかまって眼下を見下ろした。透明な水が岩の隙間を縫うようにして、下流の方へと流れている。少し向こうには小さな滝があり、上流から落ちてきた水が水面に打ち付けられることによってしぶきを上げていた。

「すごい、なんだか心が落ち着いてくるね」
「でしょー! 私も疲れた時はたまにここに来て、荒んだ心を鎮めてるんだよ!」

 そう言うと、珠樹も紫乃と同じく手すりを掴み、身体を弓なりにそらせた後、吐き出すように大声で叫んだ。

「バッキャローーーー!!!」

 何に対しての、誰に対してのバカヤロウなのか、朝陽には分からなかった。

 紫乃は珠樹の叫びが面白かったらしく、お腹を押さえながらくすりと小さな笑みをこぼす。しかしそれは押さえきることが出来なかったのか、小刻みに身体を震わせながら声を出して笑った。

「紫乃ちゃんもやってみなよ! ストレス発散になるぜ!」
「え、私も?」
「恥ずかしがることなんてなにもないからね! ここあんまり人来ないし、今は私たちだけだから!」

 初めは恥じらいを見せたが、一度胸に手を当てて深呼吸をした後、紫乃は吐き出すように大声で叫んだ。

「ごめんなさいいいい!!!」

 その声は遠くまでよく響き、こだまとしてこちらへと返ってくる。想像していたより大きな声だったのか、珠樹は目をしばたたかせていた。

「うわ紫乃ちゃんすごい大声出せるじゃん! でもなんで謝ったの?」
「あ、えっと、それは、なんとなく、かな……」

 誤魔化すように紫乃は不器用に微笑む。珠樹は特に気にした様子はなかったが、朝陽は見過ごすことが出来なかった。

 珠樹に聞こえないように、紫乃へ耳打ちをする。

「もしかして、何かあった?」

 するとびくりと一瞬身体を震わせたかと思えば、また不器用に微笑んだ。

「あ、あはは……なんでもないよ?」
「……そう?」
「うん。ちょっと、謝りたい気分だったの……」

 彼女の気持ちが分からなかったが、気休めになればと思い肩へ手を置いた。びっくりして朝陽の方を見るその瞳は戸惑いで揺れている。

「たぶん、珠樹は紫乃の思っている以上に良い子だよ。だから気に病む必要なんて何もないからね」

 その言葉に安心した表情を見せたのは一瞬だけ。すぐに安堵の表情は沈んでいき、先ほどよりも陰りがさした。

 紫乃は胸に手を当てて、朝陽の袖を引き止めるように掴む。震えていた唇がゆっくりと開いた。

「あの、私……」

 言いかけた言葉は途中で止まる。二人の間をゆらりゆらりとさまよって、結局明確な言葉として朝陽には伝わらなかった。

「どうしたの?」
「……なんでもない」

 なんでもないわけではないということは、朝陽にも分かっていた。だけどそれ以上は何も言えずに口をつぐんでしまう。

 そうしていると、珠樹は紫乃に後ろから抱きつくようにして飛びかかった。首から腕を回された紫乃は、驚いた声を上げる。

「うわ! え、どうしたの?」
「せっかく遊びにきたんだから、ほら笑顔笑顔」

 ニッと口角を持ち上げて珠樹は微笑む。それにつられて紫乃もくすりと微笑んだが、その表情は突然見る見るうちに崩れていった。

 彼女は、涙を流したのだ。

「え?! 紫乃ちゃん大丈夫?! もしかして痛かった……?」
「ううん、そうじゃなくてっ……」
「大丈夫?紫乃?」

 ふるふると、紫乃は何度も首を左右に振る。その姿を見ていられなくなったのか、珠樹は抱きついたままその頭を撫でてあげた。

 しばらくすると涙は引いてきて、朝陽はホッと安堵の息をついた。

「ごめん、突然泣いちゃって……」

 謝る紫乃の肩を、珠樹は笑顔でポンと叩いた。

「気にすんなって! そういう日もあるから!」

 やはり彼女は強い人だなと、朝陽は改めて感じる。

「紫乃、今日は余計なことは考えないで、三人で楽しもうよ。せっかくこんなに天気がいいんだから」

 頭上を見上げると、雲一つない透き通るような青空が広がっていた。スズメの鳴き声が聞こえてきて、心を落ち着かせてくれる。

 紫乃はもう一度だけためらいの表情を見せたが、やがて一度唇をひき結んだ後、二人へ今日一番の笑顔を見せて頷いた。

 それから珠樹の提案で川岸へ降りると、彼女はおもむろに平たい小石を拾い上げて、水面に向かって横向きに投げつけた。小石は水面を滑るようにして飛んでいき、やがて力を失い水中へ沈んでいく。

 もう一度適当な石を拾い上げると、それを紫乃へ手渡した。

「紫乃ちゃんもやってみなよ。水切り」
「うん」


 紫乃は見よう見まねで小石を水面に投げたが、珠樹のように綺麗に滑りはしなかった。一度もバウンドすることなく、ぽしゃんと水中へ沈んでいく。

「あはは、紫乃ちゃんへたっぴだね」
「だ、だって初めてだし……」

 恥ずかしいのか頬を染める姿を見て、珠樹は声を出して笑う。朝陽も微笑ましさからくすりと微笑んでいた。

「あ、おい朝陽。てめえ笑ってるけど、水切り出来んのか?」
「なんでそんなに高圧的なの」

 手近な石を拾い上げて水面に投げると、珠樹のようにはいかないまでも、5回ほど水面を切るように飛んでいった。

 紫乃はそれを見て、パチパチと手を叩き賞賛する。

「うわ、すごい」
「紫乃ちゃん、あいつは男だから出来て当然だよ。全然すごくない」

 出来ても出来なくても罵られたのだということがわかり、朝陽は引きつった笑みを浮かべる。

 しかし紫乃がくすりと微笑んでくれたから、素直に水に流すことにした。きっと珠樹にもそういう打算があったのだろう。

 それからは紫乃の手を取りながら、珠樹は水切りのやり方を教えてあげた。最終的に跳ねた石の回数は三回だったが、成功した瞬間は小さくガッポーズをして喜びを表現する。

 その時にはもう、紫乃の目に涙は浮かんでいなかった。