私の不安をあなたが一番知っている

部屋を出ると狭い廊下を歩いていく。


「今日は助けていただいた上、話も聞いてくださって……ありがとうございます。倒れたのに、なんか朝よりも元気になりました」


「それはよかった……のか?倒れた後の方が元気とは、朝が余程辛かったのか……。心配だな」


あっ、帰る直前に心配させてしまった。


ガラスの向こうの人影が見えると、この床の軋みが名残惜しくなる。


「そうだ、これを渡そう」


そう呟いて、戸のない部屋に消えていった。
すぐに出てきたあの人が持っていたのは何かのパックだった。


「えっあの、いいですよ、助けていただいたのに……」


私は手を振って断った。
手ぶらで何も返せないのに……申し訳なさすぎる。


「遠慮しなくていい。家でもこれで温まってほしいと思っただけだ。ジャージのポケットはあるか?」


「あります……」


差し出されると断れない。私は五つのパックを二つと三つに分け、ズボンのポケットに入れた。そして上着を伸ばし、膨れたポケットを覆い隠す。


「ありがとうございます」


入れ終わったのを確認するとまた足を進める。
玄関は冷えていて、もっと寒い外で待たせてしまい申し訳無い。
右側で揃えられていた靴を見つけて、足を入れ込んだ。


「ありがとうございます」


担任の先生がお礼を言うと、当たり前のことをしただけですからと言った。
さっきまでの穏やかな表情は消えて、無愛想に感じてしまう。


「安芸津(あきつ)、今日はうちの生徒がお世話になったな」


学年主任の大橋先生が言った。
安芸津さんっていうんだ。っていうか、知ってるの!?


「久しぶりだな。元気にしてるか?」


「ええ、何事もなく」


久しぶりに先生に会ったというのにすました顔をしている。


「なんか大人しくなったなー。十年前の俺に言っても信じないだろうな」


「でしょうね。ここは寒いので、早くバスに帰してあげてください」


「おう、そうだな。今日はありがとう」


「ありがとうございました」


私、大橋先生の順に玄関から出た。
あの人のことをもっと知りたいという気持ちは、閉められたドアに遮られ、繋がることはない。もう二度と来ることがない他人の家に戻ったんだ。
ビニール傘を渡され、大人しくさした。


大人しくなった?しかも十年前の俺に言っても信じないと言われるくらい。
学生の頃は騒がしかったのかな?想像できないんだけど……。


石の道から冷たいアスファルトに足を落とした。これから騒がしいバスに向かうしかないんだ。


ここはバスが停まれないほど狭いので、来た道を下る。
道幅が広くなってきたところで左に曲がると、バスが待ってくれていた。


狭い入り口に足を踏み入れると床が揺れた。
一人分しか響かない足音と、ほとんどの席が埋まっている時の威圧感で居たたまれなくなる。


私のせいで帰るのが遅くなったんだ……。
座っていた席に置かれたリュックサックを持ち上げ、代わりに腰を落とす。
すると座席が揺れてしまったので横の友達を見たけど、ゲームに熱中しているので気にしていないみたいだ。
さっきの揺れで手元が狂っていれば、うわぁ……などの声をあげてくれる。無言ということは何もなかったのだろう。


「思意ちゃん大丈夫?」


他の席の友達が肘掛けに手をついて、半身を私に向けた。


「うん。今は何ともない」


「そっか。何かあったら言ってね」


友達の周りの子も私の方を見ていたけど、安心したような笑みを浮かべた後、それぞれ向き直った。


「今日は災難だったね」


ゲームから目を離した友達が言った。
災難、だけど嫌な気分ではない。


「うん。来年はあんなことがないといいね」


また倒れたらあの人に会えるのでは……なんて悪いことを考えてしまったけど、言える訳がない。
ないといいねと言ったことも嘘ではない。あんな苦しい思いはしたくない、けど、疑われずにあの人に合う方法がそれくらいしか思いつかない。


私に残っているのは、思い出とお茶のパックだけ。
私の方に視線が向けられていないのを確認して、お茶のパックを取り出し、リュックサックの中に入れた。


ぱっくり開いたリュックサックの中からお茶のパックを覗き込んだ。
僅かな光を頼りに、掛川茶と朝宮茶の文字を確認した。