「君は何もできないんだね。」

 辛辣な言葉は呆れの感情の中に優しさを感じるのは自分の思い過ごしだろうか。
 どちらにせよ、正直に答えるだけだ。

「生け贄は美味しく育つために傷をつけちゃいけないからって何もさせてもらえなくて。」

 何か手伝おうとキッチンに立つ宗一郎の横に立ってみても包丁も使えなければ、何も出来なかった。

 何より、リズムよく野菜を刻む宗一郎の白く綺麗な手から少し離れて調理台の上にある子どもみたいな手。
 嫌でも比べてしまう。

 宗一郎は料理をしながらも微笑んだ。

「本当、美味しそうなぷっくりした手だね。」

 怪しく光る瞳で見つめられゾクッと背すじに冷たいものが走って足が微かに震えた。
 恐怖を一時的に忘れることは出来ても完全に拭い去ることなんて出来やしない。
 そういう関係なのだから。

 目を伏せた宗一郎はポツリと呟いた。

「ごめん。冗談。」

 いたずらっぽく小さく笑われて、けれど少し悲しそうだと思うのは思い違いなのだろう。
 心のどこかで宗一郎は自分のこと食べたくないんだと思っていた。

 けれど違った。

 いろんなものが綯い交ぜになって気持ちはこれでもかと沈む。

 沈んでいく気持ちを察したのか、再び宗一郎がいたずらを仕掛けて来た。

 急に口に何かを詰め込まれたのだ。
 驚いて宗一郎を見上げた。

 今度こそ満面のいたずら顔で笑われた。

「食べなよ。青白い顔してる。」

 サラダに入れていたプロセスチーズの端切れを口に押し込まれた。

「まるまるした方がきっと美味しいから。」

 食べちゃうぞジョークに今は何故だか笑う。
 恐怖を忘れたわけじゃないのに、笑わなきゃいけない気がした。

「今度はヘンゼルとグレーテルの魔女とヘンゼルみたい。」

「ハハッ。そうかもね。
 太らしてから食べなきゃ。」

「じゃ私は宗一郎さんをグラグラ煮えた鍋に落とすんですね。」

 目を丸くした宗一郎が「桃ちゃんには敵わないなぁ」と笑った。

 彼を宗一郎さんと呼び、桃ちゃんと呼ばれる。
 名前を呼ぶことで彼の存在を認めるみたいで名前を呼ぶことを避けていた自分が馬鹿らしく思えた。

 穏やかなひと時は幻想に過ぎないのは分かっている。
 それなのに幸せだと思った。

 分からない。もう分からなかった。
 逃げ出したい恐怖の中にこんな穏やかな時間があってどちらが現実で夢なのか。