「あ! 月!」

小川さんの声で顔を上げると、厚い雲の一点がほんのりと明るくなっていくところだった。
雲から滲むような光は確かに月の色。

「本当だ」

雲はとろけるように薄くなっていく。
光が強くなり、じわじわ空の色を変える。
もう少し、あともう少しで見えそう。
ところが、じっと期待して待つ私たちに、意地悪な厚い雲が再び月を覆ってしまう。

「ああっ! もうっ!」

「残念」

見合せたその表情はわからないけど、ふっという息づかいで、小川さんが笑っているのはわかったから、私も笑って言った。

「なんかいつもこんな感じですね」

夜桜も花火も遠目から。
月は見えそうで見えない。
漱石先生、月が見えない場合、「I love you」はどう伝えたらいいのでしょう?

「うーん、でも」

小川さんはガサガサとお団子のパックを袋にしまう。

「いつも楽しいですよ。だからやっぱり、いい夜です」

『いい夜』。
きれいなものなんて何もなくても、いい夜だ。
もし今夜が史上最もうつくしい月夜だったとしても、小川さんがいなければ私はこんなに空を見上げていなかった。

「遅くなっちゃいましたね」

そう言って小川さんが立ち上がるから、仕方なく私も立ち上がった。
『いい夜』もここで終わり。

「お引き留めしてすみませんでした」

「だからね、ミナツさん。引き留められたつもりはないですって」

促されてアパートに戻ると、小川さんはまだベランダの下にいた。

「おやすみなさい」

ガサガサと音をさせて手を振る。

「おやすみなさい」

住宅街なので夜はとても静かなところだ。
小川さんの靴がアスファルトを擦る音さえ拾うことができるほど。
それがどんどん小さくなるのもわかるくらいに。

「好きです」

敷地を出ていく背中にそう言ったけれど、ささやきはわずかな風にさらわれて、こんなに静かなのに届かない。
この気持ちと同じくらい大きな声が出せたら……。
そんな私の気も知らないで、小川さんは街灯の下で変わらない笑顔を見せて帰って行った。

夜空を眺めたのなんて、いつ以来だっただろう?
実家でも十五夜なんてしなくなって久しい。
幼い頃頑張って勉強した星座も、オリオン座くらいしか覚えていない。
私の生活は、ずいぶん味気ないものになっていた。

今夜は、あの頃うつくしく見えた世界に帰ったような『いい夜』だった。