『━━━━━もしもし』

ざわめきを背景にしたその声は、乾いた地面に染み込むようだった。

「こんばんは。あの、中道です」

『小川です。ミナツさん、久しぶりですね』

「今、電話大丈夫でしたか?」

『大丈夫です。仕事帰りで、ちょうどコンビニにいるところなので』

ふっと沈黙が降りる。
どう考えても、ここが要件を伝えるタイミングだった。
ひと月考えて出なかったアイディアがこの一瞬で出るはずもなく、結局黙って抱えた膝を見つめるだけ。
けれど、一向に要件を言わない私に、小川さんは『どうしたんですか?』とは言わなかった。

『今夜は十五夜らしいですね』

「十五夜?」

カーテンを開けても室内の明かりでよくわからない。
窓を開けてみたところで、重そうな曇り空しか見えなかった。

『でも満月は明日らしいんですよ。仲秋の名月って必ずしも満月じゃないんだって。知ってました?』

「そうなんですか? 知りませんでした。満月じゃないんだ。……どっちにしろ、見えないですね」

『見えませんか?』

コンビニの中にいる小川さんは空を見ていないらしい。

「見えません」

『じゃあ、せめて月見団子でも買おうかな』

『お待たせしました~』という店員さんの声を聞きながら、私も厚手のカーディガンを羽織り、冷蔵庫からゼリーを持ち出してベランダに出る。

「寒いっ」

『風邪ひかないでくださいね』

「…………ふぁい」

『何か食べてますか?』

「すみません。せっかくなので、ぶどう味のこんにゃくゼリーを」

くすくすという笑い声と『892円です』の声が重なって届く。

『俺のことは気にせず、詰まらせないようにゆっくり食べてください』

「すみません。大丈夫です」

『あ、本当に全然見えませんね』

コンビニを出たらしい小川さんの背景は、今度は車が往来する音に変わった。

「真っ暗ですよね」

「きれいな月ですね」「そうですね」なんてロマンチックなやり取りでもできればよかったのに、もはやこれが空そのものではないかと思えるほど、隙のない曇り空だった。

『でも、いい夜です』

「いいですか?」

『こんなに曇り空を見上げることも、なかなかないじゃないですか』