「近くまで送ります」

ようやく彼が一歩歩き出すから、仕方なく後に続いた。
からんころん、という下駄の音が余計に寂しさを掻き立てる。
帰る人の流れに逆らうには一列にならなければならず、私はずっと彼の背中ばかりを見ていた。
髪の毛についたヘルメットの型が、仕事の疲れのようにも見える。
紺色のTシャツにデニムの彼は、すぐ夜に紛れてしまいそうで、必死に後を追った。

やがて、後片付けを始めている里葎子さんたちの姿が遠目に見えた。

「あの」

ガヤガヤという人混みに声は紛れて、すぐ目の前の彼にさえ届かない。

「すみません!」

少し声を大きくしても気づいてもらえず、その背中は人混みを掻き分ける。

「待って!」

Tシャツの裾をきゅっと握って、ようやく振り返った彼に、少し大きな声を向ける。

「もう、すぐそこなので!」

里葎子さんたちの場所を視線で示すと、彼は笑顔で一歩下がって道を開けた。

「そうですか。じゃあ、帰りは気をつけて」

促されても、離れる気にはなれなかった。
裾を握ったまま離そうとしない私に、彼は少し意外そうな表情になる。
その顔を見ながらTシャツを引っ張るようにして、もう一歩近づいた。
暗くて、見知らぬ人とでさえ触れ合う人混みの中では、許されるような気がして。
声が届くように口元に手を添えて背伸びをしたら、意図を察して耳を寄せてくれる。
湿ったような体温と首筋の匂いを、直接感じた。

「名前、なんて言うんですか?」

すぐ近くで見合わせた顔には少しの驚きが浮かんでいた。
「ああ、そうか」とつぶやき、彼はさらに深く屈み込んで、触れるほど近くで答えてくれた。

「『オガワセイタ』です」

心臓に直接届けるような声だった。

「『オガワセイタ』さん?」

「普通の『小川』に『晴れる』『太い』」

『小川晴太』
心の中で噛み締めたら、青空が広がるように世界が明るくなった。

「すっごく晴れ男っぽい名前ですね」

「あれだけ毎日外にいれば、晴れ男も雨男も関係ないけどね」