碧惟の番組だ。碧惟が来ないわけがない。

 そう思うのに、電話で帰ってくるなと言われて以来、話もできていないし、ひと目も会っていないのが、不安で仕方ない。

「それでは、今日のメニューを教えてください」

 湖春の問いかけに、梓はハッとする。

「はい。野菜たっぷりのカポナータ、イワシのベッカフィーコ、それからオレンジのサラダの3品です」

「今回のレシピ本には、たくさんのメニューが掲載されていますが、その中からどうしてこれを?」

 このメニューを選んだのは、もちろん梓ではなかったが、梓が好きに選んでもいいと言われても、これにしただろう。

「イタリアに留学したことがある碧惟先生のお気に入りのメニューだからです」

 そして、碧惟が初めて作ってくれた朝食だから。

 強がっていたものの不安でいっぱいだった同居当初、碧惟が作ってくれたこの朝食を一緒に食べながら、がんばろうと誓ったのだ。

 碧惟の留学の思い出の詰まった、そして梓と碧惟の思い出も込めたイタリア・シチリア島の味だ。

「そう。がんばってね」

 そうして、湖春はステージを去っていった。

(さて、どうしよう)

 顔を上げると、目の前にはカメラ。たくさんのスタッフ。そして、じっとこちらに注目する観覧客たち。さらに、その後ろには、まだ芸能記者もいるようだ。

 一人で取り残された梓は、緊張で眩暈がした。皆が梓に注目している。

 カメラのすぐ横にいるスタッフが、カンペを指した。

「で、では、料理を始めていきたいと思います。まず、材料の説明をします……」

 何とか説明をし終えると、動作が止まってしまった。

(何すればいいんだっけ!?)

 スタッフがなにか言っているようだが、よく聞こえない。落ち着こうと、梓は一瞬目を閉じた。

 夜中のスタジオで、朝のキッチンで、碧惟はいつも梓に寄り添ってくれた。ときに口うるさいほどに注意しながら、一つ一つ丁寧に、なんでも教えてくれた。

(それを、みんなに伝えたかったんだ)

「……お料理を始める前には、必ず手洗いをしてください。水で流すだけじゃなく、石鹸をつけて、しっかり泡立てて。手のひら、手の甲、指の間、爪の先、手首までしっかり洗います」

 碧惟の言葉をなぞるように口に出しながら、いつものように手を洗うと、少しだけホッとした。

 普段は、テレビではそこまで映さないせいだろう。カメラの横のスタッフは、ちょっととまどった顔をしていたが、ほんの数十秒だ。待ってもらうことにしよう。

「それから、やっと食材に触っていいんです。これを忘れると、碧惟先生は絶対怒るんですよ」

 思い出すと、ほんの少し頬がゆるみだす。

「ええと、まずはナスを乱切りにします」

 緊張がほぐれて来たかと思ったが、包丁を持つと手が震えてしまっていた。ナスを押さえていた手も震える。

 震えをこらえようとするあまりに力が妙な方向に入り、ナスがまな板を転がると、さっきまでの努力は水の泡、頭の中は真っ白になってしまった。

「す、すみません!」

 辺りは、静まりかえっている。自分の鼓動だけがうるさい。

(どうしようどうしようどうしよう……っ!)

 すっかりパニックになった梓の肩に、ふわりと温かい手が載せられた。