武は一瞬、呆気に取られたが、すぐに気を取り直して言い募った。

「おまえ、だまされてるんだよ。おまえなんかが、相手にされるわけないって、わかるだろ?」

「もう帰って」

「なあ、梓。俺のところに戻ってこい」

 梓は首を振る。

 かたくなな梓に、武が立ち上がった。梓はあとずさったが、武は構わず距離を詰めてくる。

「あんな女に騙された俺が悪かったよ。なあ、これでいいだろ? おまえと結婚しないと、俺の立場がないんだ。なんせ、おまえが結婚するって言いふらして会社を辞めたからな。わかるだろ?」

「知らないよ! あなたがわたしに仕事を辞めろって言ったんじゃない!」

 初めてあげた梓の大声に、武が硬直した。

「あなたは、その女性と同じことをしたって、自分でわからない? わたしはもう、あなたを信じられないの。二度と会いたくもないの。帰って!」

「梓……? どうしたんだよ、おまえが俺にこんなこと言うなんて」

「あなたと付き合ったときは、あなたに従うのが一番良いんだと信じてた。言う通りにしてれば楽だったし、何よりあなたが好きだったから。でも、今はあなたを好きじゃないの」

「なに言ってんだよ。へんな連中と付き合って、おかしくなったのか?」

「先生や湖春さんのこと、悪く言わないで。そうだよ、わたしは変わりたいの。もう、昔のわたしとは違うの」

 武は困惑していたが、媚びるようにゆがんだ笑みを浮かべた。

「そうかそうか、わかったよ。とにかく戻ってこい。帰ればおまえもわかるから」

「やだ! 一緒には行かない」

「梓!」

 鋭い声に、梓は体を強張らせた。怖い。近寄ろうとする武から離れたいのに、足が動かない。

 なんとか足を後ろに引きずったとき、その肩を温かい腕が受け止めた。

「またおまえか……」

「帰ってくれないか。こいつが嫌がっている」

 碧惟だった。

「遅いから、迎えに来た」

 梓の耳元で、穏やか声がささやく。

 知らずに震えていた梓をなだめるように、大きな手のひらが頭をなでた。

「部外者は、引っ込んでろ」

「あいにく、こいつは俺のものでね」

「どういうことだ?」

 弾かれたように顔を振り向けようとする梓の肩を、碧惟は強く引き寄せる。

「梓は、俺の婚約者だ」

「な……っ! なに言ってるんだ! 去年の秋まで、梓は俺の婚約者だったんだぞ!」

「去年の秋までね。今は俺の婚約者」