「よし、スクランブルエッグができた」

「うわぁ、豪華!」

 次々とテーブルに運び込まれる料理に、梓は目を輝かせる。

「シチリア風オレンジのサラダ、野菜がたっぷり入ったカポナータ、イワシのベッカフィーコ、コンソメスープ。フォカッチャには、オリーブオイルをつけて。冷めないうちに食べてくれ」

「ありがとうございます!」

 黄金色のスクランブルエッグにフォークを入れる。とろっとろの食感を逃さないように口に入れると、ふんわりバターが甘く香った。塩気がちょうど良く、もうすっかり覚めていたはずの目が、見開かれていく。

「……おいしい。おいしくて、幸せ」

 幸せ。

 自然とそう呟いていた。

 初めて口にした外国語のように、梓は卵の優しい後味が残る舌で、その単語をなぞる。

 おいしくて、幸せ。

 そんな単純で原始的で力強い感覚を、梓はすっかり忘れていた。それを今、強烈に思い出し、実感した。

(ほんとうに。おいしいって、幸せだ。幸せなんだ)

「良かった。口に合ったか。これは、シチリア料理をアレンジしたもので、俺の好きなものばかりなんだ」

「シチリアって……たしか、住んでたんでしたっけ」

「そうだ。俺が料理を修行したところ。そんなことはいいから、どんどん食べろ」

「……はいっ」

 卵は、カポナータと一緒に食べてもおいしい。茄子やズッキーニをトマトで煮込んだカポナータは、濃厚な昨日のトマトスープとは違い、さっぱりした味わいだった。

 初めて食べたイワシのベッカフィーコは、開いたイワシの中にレーズンや松の実を挟んでクルクルと巻き、パン粉をまぶして焼いたものだ。松の実やパン粉のカリカリとした食感とふんわりしたイワシ、レーズンの甘味とニンニクと魚の塩気など対比が面白い。小さくて口にしやすいせいか、朝の胃でもどんどん食べてしまう。

 シンプルなコンソメスープはコクがあって、冷えた体を温める。オレンジのサラダは、さっぱりとしていて、デザート代わりにもなった。

 怒りも気まずさも恥ずかしさも、それから今まで背負ってきた不運も忘れて、梓はすっかり元気になってしまった。

 そうだ。元気になってしまった。

 元気だと自分で実感するのも、久しぶりの感覚だった。

 でも今、驚くほど身も心も軽い。だけど、おなかだけほんのり重くて温かくて、心はもっと温かい。

 朝日に照らされながら笑顔を交わし、温かい料理を食べることが、こんなに幸福だったとは。

「朝からこんなにおいしいもの食べられて、ほんとに幸せ……!」

「こんなので良ければ、いくらでも」

「こんなのって……先生、こんなの全然普通じゃないです! ものすごく、特別なことなんですよ!」

「大げさだな」

「大げさじゃないんですってば!」

 そう繰り返しても碧惟は、笑っているだけだった。この特別さが伝わらないのが、もどかしい。

「夕食は、何が食べたい? 用意しておく」

「……どうしよう。先生が優しいこと言ってる……」

「なんだよ、人がせっかく訊いてやってるのに」

「嘘嘘ごめんなさい! 何でもいいです。先生の作ったものが食べたい!」

「わかった。何時に帰ってくる?」

「……うわぁ。すごく新婚っぽい会話」

 途端に、碧惟がブスッとする。

「不本意だ」

 梓は、笑ってしまう。

(――ああ。わたし、久しぶりに笑ってる)

 しかも、朝から。食事をおいしいと感じながら。男の人と二人で。

 そのどれもが新鮮で、あまりに久しぶりのことに感じ、梓の胸は引き絞られる。

「……先生、わたし」

「ん?」

 無表情に戻ってしまった碧惟を朝日の中で見つめながら、梓は宣言した。

「わたし、先生の奥さんになったつもりになりますね」

「……は?」

「どうやったら、先生が結婚に前向きになってくれるかわからないので、わたしは先生の奥さんのつもりで暮らしてみます!」

「……いや、俺にはおまえの思考回路がわからないけど」

 本気で悩み始めた碧惟に、梓は晴れやかに宣言した。

「よろしくお願いしますね、旦那様!」