「掃除、洗濯は各自でいいな」

「はい。お料理をしていただく代わりに、共有部分の掃除はわたしがやります」

「助かるが、できる範囲でいい。定期的にクリーニングを入れているから。それより、向こうの部屋の洗面所とトイレは使ってもいいが、生活感が出ないように気をつけてくれ」

「わかりました」

 スタジオのある102号室は、スタジオとして使用し、居住空間は別にあるという建前になっている。梓の痕跡が料理教室の生徒に見つかると、少々面倒だ。

「出入りは、悪いが101号室の玄関を使ってくれ。これが、一番のルールだな」

「わかってます」

 梓が住むのは、あくまでも101号室。102号室から出入りしているのを見られれば、碧惟との関係を問い質される羽目になるだろう。それだけ避けてくれれば、ほかに要望はない。

(いや、もう一つ頼んでみるか)

「ああ、あと一つ」

「はい」

 これが重要だとばかりに、人差し指を立てると、梓は姿勢を正した。

「朝、起こしてくれ」

「え?」

「隣に寝てるんだし、別にいいだろ?」

「それって、ものすごく語弊のある言い方ですね」

 それもそうだ。実際に隣に並んで眠るわけではない。部屋が隣り合っているというだけだ。

「6時半に頼む。朝が弱いから、どんな手段を使っても構わない」

「……わかりました」

 不自由が出てきたら、その都度言い合うことにして、確認は終わった。

 梓はカップに残った紅茶を飲み干そうとする。これで、今夜は終わりだと言われている気がした。

「そんなことより……」

 行儀悪く梓側の足をソファに上げた碧惟は、梓に向き直る。

「どうやって俺に結婚させるつもりだ?」

「え?」

 いたずらっぽく笑うと、こわばっていた頬に赤みが差した。

(単純だな……)

 梓も見た目で惑わされる一人かと思いながら、それも悪くないと思い直す。なにも反応されないよりはよっぽど良いし、まだしばらく顔で食えるかという自信にもなる。

「え、いや、この前も言いましたけど、あの……け、結婚、本当にしてもらうつもりはなくて!」

「だな。本当だったら、俺も困る」

「わかってるなら、からかわないでくださいよ……」

 碧惟は悪びれずに、肩をすくめた。

「で? おまえの作戦は?」

「それは……ええと、その……掃除をがんばったりとか」

「悪いが、俺は掃除も料理も得意だ。それに、さっきも言ったように、必要があればプロに頼むしな。素人の家政婦のために結婚するなんて、馬鹿げている」

 梓は傷ついたように口を閉ざしたが、碧惟は止める気はなかった。

 労働のために結婚するような人間ではない。その必要もない。それは、ハッキリ言っておきたかった。

「仕事も順調だし、経済的にも他人に頼る必要はないんだ」

「……親御さんに、早く結婚しろってせっつかれたりは?」

「別に。内心は知らないが、面と向かって言われたことはないよ」

「えっと……病気になったら、看病します!」

「滅多に風邪も引かないけどな」

 薄く笑うと、梓は再び口ごもった。

 結婚してくださいだなんて威勢よく言うからどんなものかと思っていたが、梓の結婚感は碧惟から見るとかなり古臭かった。

「もう終わりか?」

「お……終わりません!」

 強がってはいるが、言葉は続かない。2度目にスタジオにやってきたときと同じだ。

 それでもなぜか、もう少し梓を待ってやろうかという気持ちが起きる。

「ちょっと今……今すぐには思いつきませんけど、絶対先生に『結婚したい』と言わせてみせます!」

「それ、プロポーズ?」

「は!? ぷ、ぷぷぷぷろぽーず!?」

 澄ました表情で尋ねてみたが、碧惟は次の瞬間吹き出した。

「ぶふ……ははっ! すげえ顔っ!」

 腹を抱えて笑ってしまう。

 梓の顔は頬も耳もおでこも真っ赤だった。色白なのがよくわかる。

「どっちがすごい顔ですかっ!」

 梓が、勢いよくソファから立ち上がった。

(怒った? それとも、俺を意識した?)

 体を二つに折るほど笑いながら、梓を見上げる。

 目が合うと、あからさまにそらされた。

「紅茶、ご馳走様でしたっ!」

(嫌われたかな)

 明朝、出ていくというなら、それでいい。追い出す手間が省けるというものだ。

(あまり長居はさせられないな)

 梓が年頃の女性だということを考えれば、数日、長くても1週間で帰すのが親切というものだろう。梓の誠意はわかったと言い含め、仕事のことはきちんと断るか、商談を続けるかすればいい。

 とろそうなのに、こういうときだけ動きが早いように思う。あっという間に梓がいなくなった部屋で、あとを追うようにキッチンに入り、自分のカップを洗う。

 梓の使ったティーカップが水切りカゴに伏せられているのを見て、こうして他人のカップが置かれたのは、少しばかり久しぶりの気がした。

(朝食、いるかどうか訊くの忘れたな)

 自分のカップも隣に並べると、碧惟はしばらくその場にたたずんでいた。