編集プロダクションでバイトしている梓を思って、碧惟がそう言ってくれたのはわかった。

 でも、梓には同意できるほど苦労をした経験がない。今のアルバイトも前職の事務職も、言われたことを淡々とこなすだけで、何とか形になっていた。人間関係で多少の苦労はあったが、仕事そのものでつらい思いをしたことはほとんどないのだ。

「苦労してひねり出したレシピを、実際に人が作ってくれて、おいしかったって言われると、やっぱりうれしいよな」

「そう……ですよね」

 苦労をしなかった分、仕事で大きな喜びを得たこともなかった。

 だからきっと、元婚約者に仕事を辞めて欲しいと言われたとき、それほど未練がなかったのだ。

 思えば、流されてばかりの人生だ。高校も大学も推薦入試で入ったし、就職も大学に来ていた求人から適当に選んで面接に行ったら、何社も受けないうちに通ってしまったところへ入社した。

 碧惟のように、自分がこれをやったと胸を張れるものが、自分にあっただろうか……。

「先生」

 梓は、食器を置くと、姿勢を正した。

「わたし、先生に企画を受けていただけるよう、精一杯がんばります」

「なんだ急に。まあ、せいぜいやってみれば」

「はい」

 決意を込めて碧惟に頭を下げると、梓は食事を再開した。

 弥生が作ろうとしている碧惟の本やDVDを見たら、こんな料理が自分でも作れるようになるのだろうか。

 もし、今このテーブルにある料理を、梓が作れたのなら。それを、碧惟がおいしいと言って食べてくれたのなら。

 想像してみたが、あまりうまくいかなかった。そもそも前に包丁を握ったのがいつだったのかさえ、思い出せないくらいなのだ。

 だけど、そんな自分が本当に、こうして自分の作った料理を誰かとわかち合うことができるようになったら。

(そうなってみたいな)

 梓にとって、とても珍しいことに「こうなりたい」という気持ちが芽生えた。

 そのためには、このチャンスをものにすることだ。今はまだ方法はわからないけれど、必ずものにしてみせる。

 それは、梓にとって初めての決心だった。