直樹はまた足を止める。

「沙夜香様…?」

直樹が沙夜香の腕を離そうとするのを構わず、沙夜香は話し始めた。

「私にも大切な人がいたのよ。」

「沙夜香様、手を…」

直樹が自分の腰に回された手を離すように沙夜香に促すが、その言葉を遮るように沙夜香は言葉を続けた。

「最近、同じ夢ばかり見るの。」

「沙夜香様、離してください。」

「私が小さい頃、酷い喘息持ちだったから、近くの大きな病院で入院生活をしてたの。その時に隣の部屋に年上の男の子が入院してて、彼はいつも年下の私の面倒を見てくれてた。おもちゃもお花もたっくさんくれて。」

一息に沙夜香が言うと、直樹は何も言わなくなった。
ただ静かに沙夜香の話に耳を傾ける。

思い出した事と思い出せない事。色んなことが混じりながら、沙夜香は言葉にしていく。

「結婚しようって約束したの。」

沙夜香が言うと、直樹は息を呑むように、小さな声で尋ねた。

「今はその方とお付き合いを…?」

「ううん。私は彼の事知らないの。まるで彼だけ記憶から消されたみたいに思い出せなくて。今は名前も、どこにいるのかさえ分からない。」

沙夜香の手を解いて、直樹はくるっと沙夜香の方へ向き直る。
直樹の目にはうっすらと涙が光っていた。

「結婚の約束をなさった事、忘れなかったんですから。いつか、きっと思い出せますよ。沙夜香様とその方との大切な約束ですから。」

沙夜香を1度強く抱き締めて、直樹は我に返ったように慌てて体を離した。

「私も、ペンダントをくれた方と婚約をしたんですよ。彼女も頷いてくれました。あとは、時が来るまでの辛抱です。」

部屋に置かれたローズティーの香りが、一層強くなった気がした。

「今日の車での事、お気になさらないでください。また明日。」

直樹が扉を閉めた途端、沙夜香はその場に泣き崩れた。

直樹には婚約者がいた。どこまでもかっこいい直樹に、彼女がいないはずもない。薄々わかっていた事だった。

優しくしてくれていたのは、あくまでも私が“お嬢様”だったから。
改めて突きつけられて、沙夜香は一晩中その場で泣いていた。