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 額に何かが触れた。懐かしい温もりを感じ、その温もりの心地良さに心が浄化されていく気がした。
 薄目を開けると、そこには病院で寝ているとき夢に出てきた少女の顔が僕を悪戯っぽく、まるで恋人を前にしているかの様な、優しい表情をしながら僕を見下ろしている。
 ――またお前か。
 後頭部に何か柔らかい感触を覚えた。体温を感じるこれは、膝枕に違いない。
 確か僕は自宅のベッドで寝ていたはずだ。
 悔しいが、自分の枕より心地が良い。
 ――ああ、そうか。また夢か。
「大丈夫ですか? 具合悪くありませんか?」
 少女は心底心配そうに言った。夢のなかでも体調が悪いのかよ、と心の中で大きく溜息を吐いた。
「そんなに良くはないかな」
「さっき、私が顔を近づけたら気絶しちゃったんですよ。覚えてますか?」
 ――顔を近づける? 気絶?
 これはもしかして、あの夢の続きなのだろうか。本当に夢の続きって見れるものなんだなと我が夢ながら感心した。
「ごめん、何も覚えていない。君は、誰だ?」
 僕は、嘘を吐いた。
 覚えていない筈はないのだけれど、後ろめたい気持ちが溢れてきて仕方がなかった。
「――そうですか」
 少女は他にも何か言いたそうな気もしたが、寂しそうに呟いた。
「とにかく、僕を看病してくれたんだろ? 一応、ありがとう」
 僕は身体を起こしながら礼を言い、立ち上がりなから夜空を見上げた。雨は、すっかり止んでいるようだ。
「帰るよ」
 僕は境内の階段を一段だけ降りながら言った。
 夢のなかなのに、どこに帰るというのだろうか。我ながら滑稽だなと思い、苦笑した。
 ただ、この少女の前から早く立ち去るための言葉としては、滑稽というより、むしろ適切な言葉だと思う。
 たった五段しかない階段を一歩ずつ降りる。
 二段、三段、四段と階段を降りる。
 最後の五段目を降りるとき、いきなり身体に重みを感じた。
 何事かと振り返ると、少女がまるで縋るように僕の背中にぴったりと張り付いていたのだ。
「い、行かないでください」
 少女は慌てた声で言った。
 当然、僕は動揺した。混乱した。思い通りにならないのは現実も夢も変わらないらしい。
 ――逃げたい。
「ご、ごめん。明日早いから、今日は早く帰らなきゃならないんだ」
 また、嘘を吐いた。夢のなかなのだから明日なんて日は来ない。
「――それでも、行かないでください」
 少女は抱き締める力を緩めずに、はっきりと言った。
「いや、でも――」
「行かないでください」
 少女は抱き締める力を一層強くした。
 わけが分からない。少女が分からないというより、こんな夢をみせる僕の潜在意識が分からない。
「――分かったよ」
 僕は少女をあやし、降りた階段を再び昇り、彼女の隣に腰を下ろした。
「もう少しだけ、ここにいるよ」
「ありがとうございます」
 少女は少し虚ろな目になっていた。そんな彼女を眺めながら、僕は下唇を噛み、どうしたものかと頭を掻いた。
 立ち去ろうと決心したというのに、少女の涙を見た途端にその決心が揺らいでしまった。
 何分経ったのか、まるでわからない。そもそも夢のなかに時間という概念は存在するのだろうか。
 もしあるとするならば、随分長い間沈黙が続いたような気がする。
「――好きです」
 静寂の間を縫って、少女の澄んだ声が僕の耳に届いた。
 ただし内容は、僕が予想すらしていなかった、寧ろ今の僕のなかに存在すらしていなかった、いや、してはならなかった、受け取ってはならなかった言葉だった。
 ――え?
 当然僕は混乱し、動揺し、背筋が凍った。
 人に好かれること、人を好きになること、それは僕にとって罪に他ならない。
 なぜなら、それ故にできた心の傷は何をしても決して癒えるものではないのだから。僕だけが傷を負うならまだいい。寧ろ傷を常に意識し、心の痛みを思い出すことが今の僕にとっては妥当な償いと言えるだろう。
 けれど、それよりも大きな問題は、僕が相手を傷つけてしまうことにある。
 そして、その問題を僕は八年前に一度、そしてその次の年にも既に起こしている。
 たとえ夢だとしても、三度目の罪を進んで犯そうと考えるほど僕は薄情者ではない。
 最も、自分の傷が増えるのは一向に構わないのだが。
「あなたのことが好きです」
 少女は二度目の告白をした。
「いきなりどうしたんだ?」
 僕は動揺を無理やり押さえ込みながら少女に尋ねた。すると、少女は口をぎゅっと結び、黙ってしまった。
「なあ、どうして――」
「……あなたは、怯えています」
「――え?」
「過去のことで、怯えています」
 心当たりが、ないわけでもない。寧ろ、ある。
 憂いを思い出し、僕は自分自身に激しい怒りを覚えた。
 ――また、この感情と闘わなければ、ならないのか。
 僕は八年前の、中学二年の夏とその次の年の夏のことを思い出していた。
 僕は、大切な人を二度も大きく裏切り、二度も大きく傷つけたのだ。