深々と降る白い雪が地面へ落ちていく。
 土の上に積もる雪は徐々に増えていき、やがて辺り一面を白銀に染めあげていく。
 その雪が積もった地面の上で、もっそりと動く小さな影があった。

 猫のような金色の瞳は今にも閉じてしまいそうなほどに眠たげだ。
 ボサボサの黒髪は肩まであるものの艶がなく、砂ぼこりや雪で汚れていた。
 まだ幼子と分かるほどに手足は短い。けれど骨と皮だけの体で土気色だ。
 服装に至っては肌色の布切れ一枚を体に巻き付けているだけで、とても服とは言える代物ではなかった。
 そんな幼子の瞳からは、時折涙がはらはらと落ちる。

「お腹、空いたなあ……」

 幼子は覇気のない声を出し、小さな手を隣へと伸ばす。

「……ねえ、お兄ちゃん」

 紫に変色した唇を必死に動かし、今にも閉じようとしている瞳を無理やり開ける。

「私たち、死んじゃうのかな?」

 降り積もり続ける雪は頬や手足の上に落ちてくる。
 見上げた先は雪を降らせる空しかなく、冬の風が肌を凍えさせていく。

「……お兄ちゃん?」

 幼子は淡々と言葉を口にしていくが、隣にいる人物が何も答えてくれないことを不思議に思う。どうして答えてくれなのかと、寒さで固まり始めている首を無理やりに動かす。
 幼子が隣を見やると、そこには瓜二つの顔立ちの者がいた。
 頬骨がくっきりと分かるほどに痩せ細っている。同じ髪色。同じ瞳。けれどお兄ちゃんと呼ばれた者はピクリとも動かない。

「嘘……だよね? お兄ちゃん……」

 絞り出した声は雨飛(うひ)る雪の音にかき消されていく。
 幼子が手を伸ばすも、相手は上を向いたまま答えてはくれない。
 幼子の隣で仰向けになっている者の瞳はずっと空を見ている。けれど瞬きすら……呼吸すらしておらず、幼子は兄が死んだのだと気付く。

「うう……やだよ。お兄ちゃん!」

 既に息耐えた兄の冷たく凍り付いた右手を触りながら、置いていかないでと紅涙(こうるい)を絞り続ける。

 ーーお兄ちゃん。私を置いていかないで。

 死んだ兄に心で呼び続ける。
 ひとりぼっちになりたくない。ずっと一緒にいたい。
 そんな気持ちだけが涙を流させていった。

「……私も連れてって。お兄ちゃん」

 死後硬直している兄の手を握る。
 霧のような白い息を漏らしながら、幼子は啼泣(ていきゅう)するのを止めない。

 しばらくすると幼子は声に力が入らなくなったのか、段々と喉に痛みを感じ始めた。
 何度も痰を出し、咳を繰り返す。
 声はもう出なくなったのか、金魚のように口をパクパクとさせているだけだ。
 幼子は声にならない声で泣き続けた。心の中で思いの丈を叫び続けた。
 届かぬ空に向かって声を張り上げる気持ちで、高く高く叫ぶ。




「ーー繋ぎ止めてやるぞ?」

 片手を高く挙げた幼子の顔に、透き通る声と共に影が落ちる。
 幼子は両目を瞬かせ、声の主をジッと見つめる。
 さらりと流れる絹糸の如き黒髪は青みを帯びていて、その一本一本に幼子は興味をひかれていく。細い糸のような髪が揺れ、時たま幼子の顔にかかる。
 細くも太くもない体格なのだが、顔立ちは端麗であった。
 狐のように細い瞳だが、真昼の太陽を落としたように紅(あか)い。それでいて宵闇のように深く底が見えてこない。
 整った目鼻立ちに深紅の瞳が似合う。そう思えてしまうほどに不思議で妖艶な空気を放っていた。
 薄い青色の着物と濃い紫の羽織りを着ていて、雪の中には似つかわしくない下駄を履いている。

 長い黒髪の人物は幼子のおでこにそっと手を置く。隣で既に亡くなっている者のおでこにも手を置き、優しく撫でていく。

「頑張ったのだな。君も……この少年も、な?」

 亡骸となった少年の両目を閉じてあげた。
 そして長い黒髪の人物は着ている羽織りを幼子へと掛けてあげる。

「さて。どうしたい?」

 長い黒髪の人物は幼子へと雅た笑みを送る。

「私はーー」

 幼子は薄れゆく意識の中、ある決断を下した。

 □□□■■■

『この電車は終点〈四つが駅〉まで各駅停車となります。間もなく発車します。この……』 

 夜空へと視線を向ければ、そこには無数の星が連なっていた。
 周囲を見渡せば人はおらず、駅前だと言うのに車のエンジン音すら聞こえてこない。耳を澄まして聴こえてくるのは鈴虫の合唱だけだ。
 ビルというビルもなく、家という家すら見当たらない。あるのは畑と木々が生い茂ている山だけであった。

「あー! ま、待ってください!」

 誰もいない駅の改札口。そこから慌てて電車に乗り込む者がいた。
 群青色の帽子で顔が隠されているので、男なのか。女なのか。それすら分からない。

「よいしょっと」

 帽子と同じ色のマントを羽織り、半ば無理矢理に電車に乗り込む。
 肩で息をしながら閉まるドアから少し離れる。

「間に合ったあ」

 群青色の帽子の人物は電車の中を見渡す。
 けれどこの人物以外誰もおらず、静まりかえっている。電車が線路を走る音だけが車内に響く。
 群青色の帽子の人物はお見合い列車の長椅子に腰掛け、ズボンのポケットから小さな何かを取り出す。
 小さななそれは黒い紙であった。

「ふふ。さてと……」

 帽子の鍔を軽くつつく。そして黒い紙を宙へと投げた。
 すると黒い紙は重力に逆らうように宙を浮遊する。
 それを見た群青色の帽子の人物は右手をパチンと鳴らす。
 するとどうだろうか。
 宙に浮いている黒い紙はブルブルと振動し始めたのだ。それだけではなく、一枚だったはずの紙は二枚三枚……と、どんどん増殖していった。
 やがて宙は漆黒に染められてしまったかのように、四角すらないほどに暗黒に包まれてしまった。

「えっと……あっ。これ、かな?」

 手品のような。魔術のような不思議な光景なのだが、群青色の帽子の人物はそれすら当たり前のように眺める。そして無数に浮遊する紙の一つを手に取った。
 黒い紙は他の物と何ら変わらない。しかし一つだけ小さな穴が開いていた。
 群青色の帽子の人物は片目を瞑り穴を覗く。

「……この方ですか」

 呟く声は電車が走る音にかき消されていく。
 群青色の帽子の人物が穴から覗いて見ているのは……


 真夏の太陽の元、公園のベンチに一人で座っている青年であった。
 顔を伏せっているため表情などは分からない。溜め息が時折漏れていて、何かを呟いているようにも思える。
 青年の隣には白くてふさふさな毛並みの猫がいて、小声で鳴いている。
 
「……飲まなきゃ」 

 青年はベンチに置いてある袋に手を伸ばし、ガサゴソと音をたてながら漁る。その袋には〈薬用〉と書かれており、どこかの病院の名前が印刷されていた。
 青年はそれを手に取り口元へと運ぶ手前……口を開いた状態で薬を飲むことなく、袋に閉まってしまう。
 
「……で…………て。……やきが……なあ」

 ぶつくさと呟き、薬から目を反らす。
 隣で休んでいる猫は青年の行動を目で追うだけにとどる。けれど猫の瞳からは……

 身を知る雨が溢れていた。