付き合っているふたりの〝普通〟ってどんなことがあるのだろう。

一緒に下校したり、手を繋いだり、休日にどこかへ出かけたり。眠る前に少しだけ電話をしたり、気持ちを確かめ合ったり。

今まで知らなかった世界が私の日常へとだんだん変わっていく。

放課後に一緒に帰るとき、私たちは教室で話すのと変わらない会話をしている。距離も特別近いわけでもない。

森井くんは人前でくっつくのはあまり好きではなさそうで、学校の近くだと手をつなぐことはほとんどない。

けれど、油断していると不意打ちで手を握られることがあるので、私はどきどきさせられっぱなしだ。



「大城たちが言ってたこと、あんま気にしないでいいから」

森井くんが時折ふたりで寄り道をする公園の前で足を止めた。


「……名前呼びのこと?」
「うん。まだ付き合ったばっかりなんだし」
「で、でもいずれは……その、呼び合うよね?」
「まあ……そうなってほしいけど」

恥ずかしいからといって、ずっと苗字で呼び合っていくのは寂しい。できれば下の名前を呼び合うようになりたいけれど、今は緊張や照れのほうが大きかった。


「小宮さんのペースで進んでいければいいから」

森井くんは私のペースに合わせてくれる。歩く速度も、話をするときも。けれど、照れを乗り越えていかないと、きっと下の名前でなんて呼び合えない。


「あの、練習……してもいい?」
「練習?」
「ふたりのときに、呼ぶ練習をしたいなって」

いきなりみんなの前で呼び合うのは私の中でハードルが高すぎるので、少しずつ練習を重ねていきたい。そんな私のお願いを森井くんはあっさりと受け入れてくれた。


「いいよ。……じゃ、俺から」

向かい合うように立ち、森井くんがじっと私を見つめてくる。その数秒間で呼吸が止まりそうなほど、緊張して手にじわりと汗がにじむ。



「星夏」

たった一言。

名前を呼ばれただけなのに、うれしくて照れくさくて、くすぐったくなる。


リュウくんや舞花ちゃんに呼ばれるのとは違う。森井くんに呼ばれると私の頬は熱を持って、気分を高揚させていく。



「は、はい」
「……やっぱ慣れないな」

確かに慣れない。けれど、恥ずかしさの中にうれしさも混ざっていく。名前を呼んでもらうって特別なことなんだな。

次は私が名前を呼ぶ番になり、口を開きかけて閉じてを何度か繰り返してしまう。緊張が膨らんでいき、心臓の音が体に伝わるくらい大きくなっていく。

けれど、このままでは時間が過ぎていくだけだ。緊張を必死に押しつぶして、深く息を吸い込む。


うつむいたまま名前を呼ぶのは失礼な気がして、ゆっくりと視線を上げて唇に声をのせた。


「し…………慎くん」

かすかに震える声で、ようやく口にすることができた。恥ずかしくてたまらないけれど、呼ばれたときと同じようにうれしさもこみ上げてくる。


「あー……うん、ちょっと待って」

森井くんはなぜかしゃがみこんで顔を手で隠してしまった。


「え、あの、嫌だった?」

くん付けはしない方がよかったのだろうか。けれど、ちゃん付けで呼ぶのも呼び捨てもなんだかしにくくて、あの呼び方が一番いい気がしていた。なんて呼ぶのが正解だったのだろう。


「嫌じゃない。そういうんじゃないんだけど。……すげー照れる」

照れているだけなのだと知れて、ほんの少し意地悪な気持ちが湧き上がってくる。
目の前にしゃがみ、顔を隠している森井くんの手をとって覗きこむ。


「……森井くんが照れるの珍しいね」

顔が赤くなっていて、自然と微笑んでしまう。

いつもは私の方が照れているけれど、今日は森井くんの方が照れているみたいだ。


「……わっ!」

にやけ顔を森井くんの手に挟まれて軽く潰された。

頬が寄せられて唇は尖っていて、きっと変な顔になっている。先ほどとはまた別の恥ずかしさに塗り替えられていく。


「誰のせいだよ」

頬を潰していた手が離れたと思いきや、耳元にそっと顔を寄せられた。そして、そっと囁くように告げられる。


「また今度練習してよ。……星夏」
「えっ!?」

不意打ちで呼ばれてドキドキとしながら手で耳を押さえていると、立ち上がった森井くんはいつも通りの余裕な表情へと戻っていた。


「ほら、帰ろ」
「は、はい……」

心臓がばくばくといっていて、頬の熱もしばらく冷めそうもない。

名前呼びは慣れるまでもう少し時間がかかりそうだ。




END