(この外山さんという人は当時、関谷の先祖の墓参りをしていると話しており、なぜイズミヤの裏の大墓地に関谷家の墓があるのだろうと不思議だった記憶がありますが、平成26年に外山さんところを訪れてみて、亡くなっていた外山さんに仏壇に線香をあげ、奥さんに聞いたことは別に記載をしております。)
非常に厳しい会社で、社長は有名な方で名前を鳥山進といい、宮崎市人名艦にもでているひとでした。
水道資材店、と土木資材を営んでいました。また、子会社には水道会社を経営しており、宮崎の水道のはしりの会社です。もともと、ここの経営者の人たちは新潟県の出身で、鹿児島で江坂商会という会社で働いていて、その後、宮崎市橘通り4丁目に江坂商会宮崎支店を出して、県内に当時自転車で鋼管、ビニールパイプなどを営業販売がスタート聞いています。その後、鹿児島の本社、江坂商会が倒産、宮崎支店はそのまま名前を変えて、宮崎商会で営業をしていたが、お客さんが、江坂さん・・・と名前を変えて呼んでくれないので、元の江坂商会に戻して営業を行ったと聞いています。その後、右肩上がりの経済、オイルショックなどを経て、水道の普及が進み、大きな財を成した。
わたしは、社長の鳥山進さんからよくかわいがられ、社長の会合先、葬儀、など会社のトラック送り迎えをしていました。
その車の中での会話が今の私の経営を支えています。
商品は新聞紙で包む、金がかからない上に、客に安く提供できる。買う客を見極め、買わない客は相手にしない・・・など、また、社会との交際が会社を支える・・さまざまなことを教えてもらいました。
しかし、この息子の専務とはまったく気が合わない、なにをしても勘ぐって、悪いことしてはいないか、など、電話を受けても、社内電話で聞き取りをする異常な性格であった。
この弟は有名な江坂設備工業の社長、浩である。この男は計算高く、世渡りがうまく、世間に出ないで後ろで糸をひいて経営を行うのがうまかった。
やがて、4年ほどがたち、会社に朝出勤すると、社長が「この会社の株を20万円分買え、絶対に損はしない、明日配当するが20万円の配当だ。わかったら20万円もって画部主になれと」よくわからなかったが、20万円持っていき、株主となったが、毎年配当は20万円。(私が退職した後は無くなった)
この会社の待遇は考えれば、給与、賞与、決算賞与、配当と多くもらっていた。
わたしは営業をその会社で初めて行うことになり、まったくお客さんのいなかった市場を半年間で70%以上の営業先を開拓した。
しかし、そりの合わない専務と一生この営業を行うと考えると、なんとなく辞める気持ちが強くなり始め、辞めることとなった。
*ここまでが江坂商会までの経過

わたしは妹2人を毎日乗せて市内の職場で働き、帰りも時間を合わせて帰る毎日でした。
時折、時間があわないで、困ったこともありましたが、田舎と職場生活が続いたのであります。
やがて、わたしは、街で知り合っていた、今の女房を田舎に呼んで一緒に暮らすことになり、女房の里に挨拶に行き、結婚式をあげて暮らし始めました。
長女が出来、長男が誕生、このころわたしは会社を辞めて、自分で商売を始めていました。親父も風呂を作ったり、便所を改造したりしていました。わたしの商売の手伝いをしてくれていました。やがて、仕事が取れるようになり、一番下の妹、その旦那と一緒に仕事をしていきました。苦労は慣れていますのでいろいろなことがありましたが切り抜けていきました。
ある日のこと、仕事場で親父と一緒に仕事をしていました。これほど親子を感じたことは生涯ありません。それは、昼に弁当を食べようとした時、わたしの弁当の中身がドサッと地面に落ちました。わたしはもういい、としていたとき、親父はそれを拾い、弁当箱に入れなおし、親父の弁当をわたしに、お前これを食え、と親父は砂の混じっている弁当を食べたのです。
この思いは一生忘れられない思いになりました。親が子を思う気持ちをこの時親父は教えてくれました。それからも親父には肝心な時には必ずわたしを支えてくれました。亡くなって7年になりますが、もっと親父と話しておけばという気持ちが毎年強くなります。
親父は苦労ばかりして、なにも楽しいことは無かったのではないかと、わたしがこのような仕事を始めなければ親父たちを巻き込まずにすんだのではと考えます。
今、しばらく苦労していますので、このように思うのかも知れませんが、悪いことばかりでなく、会社が成長していったこともあります。良いこともありました。
景気の良いときにはみんなで旅行など、しかし、良い事は長くは続きません。
公共事業を主体に県内でも5番手まで上がっていたとき、公共事業削減、イノベーションと言葉はいいが困難な時代となっていったのです。やがて、事業転換を模索していったが、次はリーマンショックと立て続けに不況が襲い、ついにはデフレ時代になり、より経営が難しい時代になったのです。
難しい経営の始まりのころ、突然足を取られて大怪我をしてしまいました。上腕骨3箇所骨折です。入院手術となりました。しかし、入院をしている場合ではないので20日間で退院したところ今度は痛烈な痛みに3ヶ月間襲われ精神的に参ってしまいました。
その翌年、親父が亡くなりました。父は本当の苦労の人生であった。こどものころ兄弟は肺をわずらい、差別を受け、薬を一山超えて、親父はまだ幼いころ取りにいっていたようです。真っ暗ななか夜中に診療所へいっていたことを聞いた記憶がありました。また、父は5人兄弟で1人が肺で亡くなり、1人が山で仕事をしている時に亡くなっています。そんな環境で親父は働き続けていかなければならない立場であったようです。親父の兄が亡くなった時にわたしが悔やみにいった時のことですが、親父は亡くなった兄のそばで泣き崩れていました。たった残りの兄弟を亡くした親父の気持ちはこのときに良く解りました。長生きをして欲しいと願って、親父の好きなように人生をやらせたつもりでしたが、反対にそれが親父を孤独にしてしまっていたように今思います。
思えば親父がいなければ今の私はありません。親父、身内の人たち、いろいろな支えで私があるとおもえるようになってきました。
一人ではなにも出来ない。
人生は良い出会い、良いパートナーがその人の人生を決めると思います。
私のこの60数年はほんとの意味で親父、兄弟みんなの支えのおかげと

親父が亡くなり、日増しに親父ともっと話しをしておきたかったと思います。

娘が結婚し、孫が3人、1姫2太郎です。娘の結婚も考えました。相手がすし屋です。あまりに心配したわたしは仲間とそのすし屋を見に行きました。立派な構えにわたしも仲間もびっくり、当然借金も多いだろうと考えました。しかし、それは仕方の無い縁であり、娘の幸せを思うことで許し、娘は嫁いていきました。
娘が2人目を出産してまもなく親父が亡くなり、3人目の出産後に嫁ぎ先の親父がなくなりました。日ごろから良く訪ねてきて、いろいろ話をした人でした。顔色が悪く病院にいかれたほうがいいですよとなんどもはなしたが、病院嫌いのひとでした、なくなる前3ヶ月に突然倒れ救急車で病院へ、診断結果は短肝がんでした。余命3ヶ月と告げられ、本人も覚悟はしたものの、本当に惜しい人をなくしてしまいました。葬儀には700名の人たちが冥福を祈ってくれました。64歳でした。同じく、もっと話をしておけばよかったと。

あまりにも世の中の流れ、時間が早すぎて、起こることについていけない年齢になったのかもしれません。
娘のすし屋の兄弟、2人は肌が合わないとしてやめていきました。
先日の3男坊の結婚式に久々、次男を見て結婚式の最後の挨拶で、娘の母が兄弟のことを思い、涙したこと。一高さんが生きていれば、・・・・と

つい先日のこと、10月の初めから母のやせ具合が気になっていたのだが、突然、おれはもうだめだ。と・・・がん何か何なのかはわからなかったが、八代医院に連れて行ったら
すい臓炎だと診断、早速点滴、などしたが。帰宅後、翌日入院、釈空満時の官庁様に見舞いに来てもらったところ、がんではない!まだ迎えはこん!といわれて一安心
その後、少しずつ体調は回復に向かっているが、本人は病んでいて、自分の家に帰ろうとしない。生きる意欲が少なくなっていることと、娘たちへのあまえが出ている。