【戸田裕貴】
口の中を切ったのか、足元にひれ伏していた伊藤明日香の唇から、血が滴り落ちる。
それでもこの女は__笑っていた。
こいつは諦めちゃいない。俺の暴行を最小限に抑え、反撃に出る時を今か今かと待っていたんだ。
俺が高く手を振り上げた「隙」に、なにを思ったのか突っ込んでくる?
その時、俺は瞬時に察した。
俺を追い抜こうとしていると。
俺を失格に追い込もうしている。
失格、それはただ運動会から落ちるだけじゃない。そのことは、1度落とされた俺が1番よく分かっている。
敗者復活戦は2回とない。
失格者となれば即、命を落とすといってもいいだろう。
そうならないようにするのは、ごく簡単なこと。
明日香を引っ捕まえる。
それでいい。
今度こそ叩きのめして、2度と起き上がれないようにすればいい。
それなのに、誰より失格者の末路を知っている俺は一瞬、ほんの一瞬だけ躊躇してしまった。
引いた腰の分だけ、手が伸びない。そして小柄な明日香は、俺の脇をすり抜けていく__。
ま、まずい‼︎
咄嗟に方向転換し、駆け出す。まだ大丈夫だ。負傷したこいつに、足で負けることはない。
だが、雨を含んだ土に足を取られ、バランスを崩した俺は前のめりに倒れこむ。
伊藤明日香が、俺を抜き去っていく__。



