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 お昼ご飯を済ませて部屋に戻ると、勉強机に背を向けてJ168が椅子に座っていた。理麗は思わず大声を挙げてしまいそうになり、自分の手で口を塞いだ。そして焦って、部屋のドアを閉めた。

「どっちを選んだ? 朱か? それとも紫か?」

 挨拶も抜きで答えを要求してくる。

 家族に部屋の中を見られては困る。理麗の部屋の側面には庭から直接地下へと入る通路がある。誰かがそこを通った時、中にいるJ168の姿を見られない様に、慌てて窓のカーテンも閉める。

「J…っ! どっから入って来たの⁉」

 誰かが勝手に家に侵入すると、警報機が鳴る筈だがそれが無かった。どうやってここに来たのか、理麗は疑問に思った。

「そんなのどっからでも入れるだろ」

 全く謎の多い人物だ。二つの赤い糸の話も現実離れした話なら、それを宣告しに来た者も得体が知れない。先日は車内にいたのでよく判らなかったが、こうして見ると全身真っ黒で奇妙な格好をしていた。

 詰め襟で袖が無く、膝丈まである上着は腰からスリットが入っている。上着はウエストの辺りまでしかジッパーが付いていないので、幾つも腰から黒いストールをぶら下げている様に見える。ゆったりとしたワークパンツ型のボトムに、編上げのブーツ。

「 ‼ ブーツ! 部屋の中でブーツ!」

 理麗は指を差して注意した。けれどJ168は悪びれもせず、

「気にすんな、すぐ出てくから」

 と平然とした口調で言う。

「いや、そういう問題じゃなくてっ」

 理麗はイラッとしたが、直ぐに諦めた。あの態度は絶対に脱ぐ気は無いと悟った。

 その他にJ168は、首から銀色のごついゴーグルをぶら下げていた。どう見ても普段着には見えない。一種のコスプレマニアだろうか。何のコスプレなのか理麗には判らない。

 怪しい……。

 この格好は信頼性ゼロに近い。理麗はどんどん不安になっていった。

 J168は自分の事をディスポウザーと言っていた。一体それは何なのか、理麗はその疑問をストレートに訊いてみた。

 するとJ168は、

「信じるかどうかは自由だけど…」

 と、腕組をして話し出す。

 ドアの傍には、座る部分が収納ボックスになっている、小型のウッドベンチが置いてある。そこには20センチ程の大きさでパウダーピンクのウサギのぬいぐるみを座らせていた。理麗はそのお気に入りを持って、J168の正面で腰を下ろし顔を見上げた。

「私達は本部から指令を受ける。赤い糸が二つ現れると、そのどちらかを始末しなければならない。そのどちらを始末するか、その選択の権利は繋がっている相手にしかない。私達はそれに従って不要な糸を始末するだけ。それが私達の仕事だ。始末された糸はそれまでの存在を無とし、過去や未来が時空に呑み込まれてしまう。だからこの世界に何も不具合は生じない。皆、それまでと変わりなく日常を送って行く。そういう事だ」

 淡々と語るJ168の顔を、理麗は瞬きするのを忘れて見ていた。

 将来結婚する相手とは運命の赤い糸で結ばれている。それはJ168が現れる以前からどこかで信じていたし、J168からその話を聞かされても素直に受け入れる事が出来た。だが、今訊いた話はかなり現実離れした話だった。さすがに理麗も戸惑う。

 話す前に「信じるかどうかは自由」と言った、J168の言葉を思い返した。それでJ168を信じてあげなければと、思い直した。

「…SFだね。Jは未来から来たの?」

 J168は、プフッ…と、吹き出してから「違う」と否定した。それから、

「世の中には信じられない事が沢山存在するのさ」

 と付け加えた。

「ふーん。Jには赤い糸が見える? ここにつながってる?」

 理麗は左手の小指をJ168に突き出す。

「見えないよ」

「そうなの? じゃあ、どうして赤い糸が二つ現れたとか、その相手があたしだと分かるの?」

「データだよ。私達はあくまで本部からデータで知らされるだけだ」

「じゃあ、その本部はどうやって知るの?」

「さぁ…私の仕事は始末するのみだから。そのへんの事は専門外だ」

「そうなんだ…。でもその糸が誰かは分かってるんだよね?」

「ああ。教えてあげられないけど」

 その言葉に、やはりと理麗は肩を落とした。

「ねぇ、さっきから私達って言ってるけど、他にもその仕事をしている人がいるの?」

「勿論。こういう事は私達にとっては日常茶飯事だから。多くのディスポウザーが動いてるよ」

「みんな同じ格好をしているの?」

「そう。これはディスポウザーの正装だから」

 どうやらコスプレマニアでは無かったようだ。

「本当? でもそんな目立つ格好してる人なんて、あたし今まで見たことない」

「そりゃあね。なかなか堂々とやれる仕事じゃないからな。人の目を盗んで行動するようにしてるし。もし私達を目にしたとしても、糸を始末した時に、時空が入れ替わると同時に私達の存在も記憶から無くなる様になってるんだ。だから誰も私達を知らない」

「…やっぱり不思議。それって本当の話?」

「勿論」

「映画の中の話みたい。それか、やっぱSFだ」

 理麗の困惑した顔を見て、

「ハハッ…」

 とJ168は飾り気無く笑った。

「まぁ、近いものはあるかな。私は人間だけど」

 理麗には言葉の意味がよく判らない。

「それとさっき、なにか言ってたね。シュとかシとか…あれってなに?」

「朱紫。説明して無かったっけ? 本来結ばれている赤い糸の者を朱。突如現れたそれを阻む者を紫と呼んでいる」

「へぇ〜」

「質問は以上でいい? そろそろ答えを聞こうか」

 一通り話が終わると、J168は再び理麗に要求した。

 理麗は視線を伏せて、これまでの事を思い返していた。

 一路は自分を何とも思っていない。結婚相手だと意識もしていない。扇郷家は二人の婚約を弟の樹二にも話していなかった。婚約なんて所詮上辺だけの事だったのか。この話は祖父達の間で盛り上がって終わるだけなのかもしれない。それを本気にして、自分だけ勝手にその気になっていたのではないか。

 この三日間で、理麗の中で一路に対しての感情が、以前とは違うものになっていた。

 最初は赤い糸の一つが一路だと信じていたが、今はそうとは限らないと感じた。あの夢が正夢なら、赤い糸の相手はどちらも知らない人物かもしれない。そんな思いもあった。

 だったら賭けてみようか。今、この時に運命に割って入る阻む者に。結婚する気がない一路が朱の位置にあるとしても、幸せな運命へと導いてくれる、運命の赤い糸で結ばれている真実の相手は紫だと信じてみようか。

「決めたよ」

 理麗は気持ちを固めた。

「そう。それで?」

「シにする」

「了解」

 理麗が選んだのは一体誰なのか。それが判ってもJ168は表情を崩さない。そこから何かを窺おうとしても、理麗には伝わって来なかった。

「それで、赤い糸の相手とはいつ会えるの?」

「言ったろ。私は始末するだけ。来るべき時が来たら、会うべくして会えるさ」

「じゃあ、もう一人とは? どうなるの?」

「会う事は二度とない」

 本来なら赤い糸で結ばれていた相手。その人物とこのまま会えなくなると考えると、少し惜しい気もした。

「会ってみたかったな…」

 理麗がぽつりと言葉を吐く。

「っ…」

 弱々しい理麗の言葉に、念わず既に会っていると言いそうになり、J168は拳を口元に持っていった。理麗はそれに気づいていない。

「じゃあ、お別れだな。指輪を返して」

 J168は立ち上がり、理麗に手を広げて出す。

 言われて、理麗はスカートのポケットから指輪を出し、膝立ちして渡した。

「これって何だったの?」

「発信機兼盗聴機」

「えぇーーっ?!」

 驚く理麗にJ168は軽く頬を緩める。

「冗談」

 その表情からは、それが本当なのかどうかは読み取れなかった。

 J168はドアを開ける。その後ろ姿に理麗は、

「また会える?」

 と立ち上がり声を掛けた。だが、

「これきり」 

 と、J168は短く答えて微笑む。

「そうなんだ…。じゃあ、元気でね」

 理麗は不思議な世界の使者に、別れの手を振った。

「あぁ。さよなら」

 J168は言ってドアを閉めた。

 理麗は力が抜けた様にベッドへと腰を下ろした。

 ここまで運命の赤い糸について、色々と話を聞いてきたが、J168の始末するという言葉に、繋がっている糸を鋏か何かでチョキンと切ってしまうイメージで、理麗は勝手に考えていた。

 理麗には「始末する」の本当の意味を理解出来ていなかった。



                  ✶



「もしもし? 樹二くん?」

 J168がここを出て直ぐに樹二から理麗に電話がかかってきた。

「え? ……。えっ? 今から? でも…えっ? ちょっと待って! あっ…」

 一方的に話を切られてしまい、理麗は受話器を置いた。

「どうしよう…」

 理麗は戸惑い、口元に手を当て、置いた受話器を見つめていた。