1


 土曜日。

 部活を終えてジャージ姿の一路が帰宅すると、母親がリビングから顔を出して、

「さっきまで理麗ちゃんが遊びに来てたのよ。一路に会いたかったみたい」

「………」

 その言葉には答えないで、母の顔は見ずに軽く頷いた。

 そんな息子の態度に、

「あら、照れてるの? それとも反抗期?」

 と、母親がぼそりと呟いた。

 昨日、嫌な空気で別れたのに、今日また会いに来るとは思わなかった。昨日の理麗の言動を思い出して、一路は少しげんなりした。

 部活で疲れているのに、そんな事を思い出させないでくれと言わんばかりに、頭を項垂れて階段を上って行く。

 二階には廊下を挟み其々の部屋がある。右側の奥が一路の部屋。手前は弟の部屋。向かい側が両親の部屋だ。

 部屋に入りバッグを無造作に置く。南西にあるバルコニー側に勉強机があり、その椅子に足を投げ出す様にして座った。

 すると直ぐにドアを開けて、小学4年生の弟の樹ニが部屋へと入って来た。

 一路は色白だが、サッカークラブに入っていて一年中外で走り回っているからか樹ニは色黒だ。一路は切れ長の奥二重の目だが、樹ニは二重の大きな目。母似の一路と父似の樹ニ、兄弟といっても二人はあまり似ていなかった。

 部屋に入って来た樹ニの第一声が、

「にーちゃん、コンヤクしてんのか?」

 だった。その言葉に一路は思わず椅子からずり落ちそうになった。

「なに…?」

「りれぇがそう言ってた」

「………」

 一路は頭を抱えたい気分になった。

 理麗から何か聞いたのだろう。正直、弟からそんな事を訊かれるとは思わなかった。

「今日、りれぇが来たよ」

 樹ニは気にせず話しを続ける。

「みたいだな。さっき母さんからも聞いたよ」

 南側の壁に沿って置いてあるベッドに樹ニは腰を下ろした。

「それで、りれぇが、にーちゃんにはコンヤクシャがいるって言ってた。そうなの?」

 興味深々の目をして訊いてくる。

「まぁ…」

 一路は椅子に座り直すと、背もたれに肘を着いて、そっち側の手で下唇を触る。

「にーちゃん、そいつのことが好きなの?」

 容赦なく質問攻めが続く。

「………」

 「りれぇ」と言っていたのが「そいつ」に変わった。言葉の様子では、婚約した相手が誰なのかまでは聞いてないらしい。理麗もさすがに自分がその相手だとは言いづらかったのか。

 理麗を好きかどうかなんて一路は考えた事も無い。ただ、祖父に言われて婚約しただけだ。

「何? 理麗ちゃん、何か言ってた?」

「だからぁ、にーちゃんにはコンヤクシャがいるって。その人とけっこんするって」

「それだけ?」

「うん」

「そう…」

 一路は立ち上がって、クローゼットから服を出して着替え始めた。

「コンヤクシャってどんなやつ?」

「…どんなって……」

 なるべく樹ニが興味を持たない様にと、一路は頭の中で言葉を選ぶ。

「じいちゃんの知り合いの孫で…、二つ年下…」

 実際その程度しか思い浮かばなかった。

「じいちゃんの知り合いのまご? オレも知ってんの?」

「…どうだろ…何年か前にその家族と会った時にその話しを聞いたんだ。覚えていればおまえも知ってるだろ」

 嘘ではない。だがヒントには遠すぎる。これ以上話しが膨らまない様に一路は気をつけた。

「オレもそこにいたの? んー…、ぜんぜん覚えてない」

 樹ニは宙を睨みつけている。

「で、にーちゃんはそいつのこと好きなの?」

「……考えた事ない」

「? 考えたことないって?」

 一路は白いパーカとカーキのワークパンツに着替えると、バッグからタオルやペットボトルを出して、脱いだジャージを纏めて持ってドアに近づき樹ニへ向いた。

「好きとか嫌いとか考えた事ないって」

「それってなんとも思ってないってことじゃない? にーちゃん、好きでもないやつとけっこんすんの?」

 樹ニは理解出来ないといった視線で一路を見る。

 一路は大きく溜息を吐いた。

「もうその話しはいいよ。実際に結婚する時期に考えればいい事だろ」

 そう言って部屋のドアを開け放したまま出て行った。

 婚約者の話しが聞きたいだけだったのに、何故一路が不機嫌な声を出すのか、まるで自分が悪い事をしたみたいで、樹ニは釈然としない気分となった。

「なんだよ…あれ」