月が綺麗ですね

私の気持ちを知るよしも無く、時間は確実に過ぎてゆき、あっという間に夜の10時をまわっていた。秘書室に残っているのは室長の広瀬さんと私だけ。
しんと静まり返った室内にキーボードを叩く音だけが響いている。

重苦しい空気は私の緊張感を更に煽っているようだ。


『もっと空気をっ!』心の中で叫ぶ。


そう言えばこれって、マリーアントワネットの出産の時の有名な言葉だったっけ?

下らないことを考えて気を紛らわせるのに必死だ。


そんな時、社内用携帯が着信を知らせる光を放ち、急に心拍数をあげた心臓のせいでまた息が苦しくなってくる。

そこには福岡発最終便の飛行機に乗ったと表示されていた。


『もっと空気をっ!!!』


間違いなくそれは今の私の気持ちを反映した言葉だった。


やめよう、やめようよ...。

私は心の中で何度も繰り返していた。しかし無情にもその時はやってきてしまった。

日付が変わってから木下さんの運転で徹さんがオフィスに帰ってきたのだ。


「お帰りなさいませ」

いつものように玄関で彼を迎える。


「進藤、例の件は?」


ドキンと胸が鳴り、みるみる顔が紅潮してくる。なのに徹さんは平然とした顔をしている。

この差って何!?

やっぱり経験の差だよね...。


ここでおかしな態度を取ったら木下さんに変に思われてしまう。

私たちは恋人同士なのだし、プライベートでこれから何があってもやましいことは無いのに、罪悪感が湧いてくる。

それは、秘密の恋だから?
それとも、これから行われる行為が恥ずかしいことだから?
多分後者だわ。

で、でもそれは太古より人類普遍の理(ことわり)なわけで...。

ぐちゃぐちゃな思考に混乱しつつも、


「は、はい。大丈夫です」

努めて冷静に答える。


徹さんは木下さんに向き直ると、


「これから僕の車で進藤を送りますので、今日はこれでお帰り下さい」

トランクから徹さんの荷物を出していた木下さんに話かける。


荷物を徹さんに手渡すと、木下さんは、

「分かりました。じゃあこれで失礼します」

「遅くまでお疲れさまでした」




木下さんの運転する車は夜の闇へと消えて行った。