よし、ここはこんなもんでいいだろ。
 まとめていたものが終わり、ようやく一息ついたと両腕をぐいっと後ろに伸ばす。
 すると一ノ瀬が、俺の方を向いて「お疲れ様です」と微笑んだ。
 その笑顔が反則すぎて、思わず見惚れてしまう。
「先輩あの、これ終わったらどうすればいいですか?」
そんな俺を知ってか知らずか、顔を覗き込むようにしてきた一ノ瀬に耐え切れず、椅子にもたれていた体を起こした。
「え? あ、もう終わったのか。ちょっと確認するから、これの入力、お願いしていい?」
「かしこまりました」
 相変わらず仕事が早い。一ノ瀬には前の部署からの引き継ぎをやってもらっていたのだが、俺の予想より大分早く終わらせてしまったので驚いた。
 ……うん、完璧だな。俺も手本にしたいぐらい。
「一ノ瀬、問題ないから返すな」
「ありがとうございます」
起立して書類を受け取った彼女は一礼すると、「あとはやることありますか」と控えめに聞いてきた。
「そうだな……」
 うーん……あ、次のプロジェクトの発表がまだだったし、丁度いいか。
「みんな聞いてくれ」
 パンパン、と手を叩きながら立ち上がる。全員が自分に注目したことを確認すると、俺は部長から頼まれていた案件を発表した。
「次の制作CMが決まった。コンセプトは『何気ない幸せ』だ。使う俳優・女優やシチュエーションも長さも全てここが受け持つ。最近他部署が忙しいみたいで企画部に放り投げられた」
やれやれと肩をすくめながら話すと、小さな笑いが起きた。
「そして最も重要なのが、今回のものはいつもとは違い一人の案を採用することになる」
ざわ……。みんなが息を呑んだのが分かる。
「もちろん俺も、今日入った一ノ瀬も参加する。ちなみに言っておくが、一ノ瀬は手強いぞ? 俺も危ないかもな」
冗談めかして言ったが本気である。
「いやいや何言ってるんですか。私、先輩に勝てたこと一度もないですよ」
「毎回僅差だったくせによく言うよ」
 あはは、と軽口を叩きあっていると、俺たちの親しげな様子を疑問に思ったのか、二年前の騒動の時も俺の味方として働いてくれた同期の中村が興奮気味に問いかけてきた。
「ちょっと! あんたたち、どういう関係なわけ!?」
「ん? 一ノ瀬は大学の後輩だけど」
「え、でもそんな接点ある? 美依ちゃんいくつよ」
「えっと、25です……」
「ってことは二歳差でしょ? なんか怪しいわね」
 出た。噂好きの中村お得意の探り入れ。捕まると面倒なんだよな~。
「あのなあ、ただ同じ学科で講義やらプレゼンで一緒になることが多かったんだよ。って、話が逸れたけど大体概要は掴めたか?提出はいつも通り部長に。俺と一ノ瀬はもうこっちに取り掛かるが、皆は今やってる仕事が終わってからでいいから。三か月後完成を目安に頑張ろう」
「はい!」
 気を引き締めたような返事に満足した俺は、一つ頷くと一ノ瀬に向かい合った。
「一ノ瀬はこれが初めての仕事だから俺が細かく指導する。お前、元々どこの部署だったんだ?」
「……先輩と同じディレクター業でした」
俺と同じ……。もしかして俺を追ってきたのか? なんて、自分勝手な自惚れだな。
「あぁ、そうだったのか。じゃあここはディレクターが決めた予算や先方の依頼テーマに従ってCMの土台を決定する場所だ。俺たちが考えたCMが日本中に流れるんだよ。夢があるだろ?」
 動揺を悟られないように冷静に説明を続ける。一ノ瀬も特に気にする様子もなく真剣に聞いてくれていた。
「だけどさっきも言ったように今回は特例なんだ。お金も出すし、俺らの希望は何でも聞くからとりあえずいいもん作れって。初めての仕事がこんなんで申し訳ないけど、コンセプトに合ったものなら何でもオーケー。理解した?」
「はい、大丈夫です。これ、モデルも決めていいんですよね」
「基本誰でも用意できると思う。秋山プロからの依頼を断る人なんていないだろうし」
「分かりました。ありがとうございます」
「ああそれと、期限日までだったら何回でも部長に見せることができるし、それで意見貰って直すのも良し、また新しく作るのも良し。自由だから気ままに自分が伝えたいものを作れよ」
 ここは個性を伸ばす場所。一つ一つのCMの裏側にはその制作に関わった、人それぞれのドラマがあるんだ。それを変なルールで縛りつけてしまったら勿体ないだろ? "表現"は自由なものでなくてはならない。俺は、そう考えている。
「はい……!」
 そう返事した彼女の瞳は、宝物を目の前にした少年少女のようにらんらんと輝いていてどこまでも無邪気だった。



 昼休みが始まると、一ノ瀬の周りに人がわらわらと集まってきた。俺が邪魔だと言わんばかりの勢いに、大人しく一人で食堂に向かう。
 おばちゃんが元気よく「今日のオススメは蕎麦だよ!」と教えてくれたので温かい蕎麦の食券を買って列に並ぶと、中村が一ノ瀬を連れて席に着くところが見えた。どうやら、一ノ瀬争奪戦は中村が勝利を収めたらしい。
 一ノ瀬が変な奴に捕まったら俺が連れ出してやろうと思ってたけど、中村なら安心だな。一ノ瀬の俺じゃない方の隣のデスクだし、姉御肌で世話焼きのあいつのことだから面倒見てくれるだろうし。
「お待ちどうさま!」
 二人を目で追いかけていたのを、威勢のいいおばちゃんの声で我に返る。
「ありがとうございます」
 お礼を言いながらお盆ごと受け取り、水をついでから一人席で黙々と蕎麦を口に運んだ。
 二人以上が座れる席に行くと必ず相席を求められるので、昔それに懲りてからは極力一人で食べるようにしている。
 ってか久し振りに食べたけど美味かった。ごちそうさまでした。
 心の中で手を合わせ、お盆を片付けようと席を立つ。目線を上げた時、奥で話していた中村と目が合った。ニヤリとされ、嫌な予感しかしない。これは飲みに行かされるパターンだ。
  根掘り葉掘り聞かれることを覚悟した俺は、お盆を台に置くと足早に食堂を去った。
 自分のデスクに戻ると部屋にいたのはお弁当組。俺はいつもギリギリに戻ってくるので、「あれ、今日はすごい早いっすね」なんて言われてしまった。続けて「卵焼きいります?」と聞かれたのでありがたく頂戴することにした。
「美味い」
「でしょう! 嫁に言っておきます!」
 俺の一つ下の彼――相田は最近結婚したばかりの新婚さんだ。披露宴には俺も行かせてもらったが、穏やかで落ち着いた奥様だったように思う。
 へへ、と嬉しそうな相田に俺も笑みが漏れる。人の幸せって伝染するものなんだな。
 コーヒーを飲みながらスマホをいじっていると昼休み終了五分前になって一ノ瀬と中村が戻ってきた。
 チラリと目を向けると、困ったような表情で顔を近づけてきたので耳を寄越す。
「ごめんなさい。中村さんに付き合っていたことだけ言っちゃいました……」
 想像していたので驚くことはないが、本人の口から直接聞くと少し気恥ずかしいような気もする。
「分かった。大丈夫だからそんな顔するなよ」
「え、どんな顔ですか?」
「泣きそうな顔」
 じっと目を見つめると、サッと一ノ瀬が俺から目を逸らした。
「泣きそうなんて、そんなことないのに……」
「はは、俺にはそう見えただけだよ。ほら、昼休み終わるから」
 キュッと眉根を寄せた一ノ瀬が、不服そうにパソコンに手を付ける。
 ……やめろ、そんな表情しないでくれ。俺のことがまだ好きだと、勘違いしてしまいそうになる。



「あーまーみー? ちょっと付き合いなさいよ」
 終業を知らせるチャイムが鳴ると真っ先に俺の腕を掴んできた。
「行くから! 逃げないからちょっと待て!」
俺がデスクの整理をするのを中村が仁王立ちで見守る……いや、見張っていて、やりずらいったらありゃしない。
「で? どこ行くの?」
 椅子に掛けていた黒いコートを羽織りながら中村と共に会社を出る。
「今日はあたしの行きつけよ!」
 ふふん、と機嫌のいい中村と他愛もない話をしながら歩くこと十五分。駅からは少し遠いが、その分静かで雰囲気のあるバーに着いた。立ち並ぶビルとビルの間の細い道を抜けた先にあって、こんな場所にバーがあるなんて全く知らなかった。茶色を基調とした外観は俺好みのシックな感じで、入る前からどこか惹き付けられる魅力がある。
 是非ともCMに使いたいけど、ここはこのままだからこそ味があるのかもしれないな。
「もしかして穴場ってやつ?」
「そう。知ってる人少ないんだから誰にも言わないこと!」
「分かった分かった」
 中村がドアを開けると、シャラン、と静かにドアベルが鳴った。中ではクラシックが流れていて、誰にも邪魔をされずに話をするにはもってこいの場所だと感じた。
「杏ちゃんいらっしゃい。おや、彼氏も一緒かい?」
「いや、ただの同期です」
 カウンター席に座ると、五十代ぐらいだろうか。白髪の混じった少し長めの髪をオールバックで綺麗にまとめ、人の好さそうな笑みを浮かべたオーナーらしき男性がフランクな態度で中村には話しかけていて、流石、行きつけと言うだけあって仲良しらしい。
「マスター、あたしはいつものやつでこいつにはマスターから見た第一印象でお願いします」
「かしこまりました」
 マスターがグラスを用意し始めたのを見て、さて、と中村が仕切りなおす。
「天海、美依ちゃんと付き合ってたんだって?」
「単刀直入に聞くね。まあ、そうだけど」
「詳しくは先輩の許可がないと……って律儀に断られちゃったからさ、よろしくね、先輩?」
 首を傾けて甘えるようにドヤ顔をしてくる中村に溜息しか出ない。
 酒が入ってないのにこのダル絡みはきついな。いつまで続くんだよ……。
「ねね、いつから付き合ってたの? 何で別れたの? 今も好きなの?」
 語尾をどんどん大きくさせ、興奮した中村の口から流れ出る質問攻めにうんざりしながら、当たり障りのない回答をする。
「俺が大学三年の時から。俺が一ノ瀬に振られたから。今は好きじゃないよ」
「ふーん……って、振られた? あんたが!?」
 信じられないと声を上げた中村の前に、コトリとタイミングよくグラスが置かれた。それは淡いスカイブルーのカクテルにチェリーが沈んでいて、とても綺麗だった。
「お兄さんは努力家ってイメージだからこれで」
 そう言って俺の前に置かれたのは赤とオレンジが混ざった、太陽のような色のカクテル。まず一口だけ頂くと、濃い外見とは裏腹にサッパリとした味わいが広がって、すごい飲みやすかった。
「こんな美味しいカクテル、初めて飲みました」
 素直な言葉が口をつくと、ニッコリとマスターが微笑んでくれた。