炒め物は、リハンなどの野菜の旨味と、鴨肉の濃厚な味が、口いっぱいに広がって、とてもおいしかった。
 美味しそうに、炒め物を頬張るシャラを、なぜかリヨンは、悲しげな目で見つめていた。
 そして何を思ったか、そっと、シャラの首にかけてある止め笛を手に取ると、一気に手前にひいた。
 ぷつっという小さな音がして、紐が切れた。
 シャラが、驚いてこちらを見たのがわかったが、リヨンは、シャラを見ようともせずに、悲しげな目で、暖炉の火を見つめていた。
 そして、うつろな目で笛を見つめてから、唐突に、暖炉の火に向かって、無造作に笛を放った。
 くるくると、弧を描いて火に飛び込んだ笛は、ぼうっという小さな音をたてて、一瞬にして燃えてしまった。
 「お…お母様…?何を…。」
 上ずった声で問うたシャラを、リヨンはそっと抱き締めた。
 「ごめん…こんなことをして、ごめんね…。驚いたでしょう…?あれは、もうあなたの笛。できることなら、こんなことはしたくなかった…。でも私は…どうしても、あなたにあの笛を、持たせたくなかったの…。」
 「…どうしてですか?さっき話していた、止め笛が嫌いだという話に、関係があるのですか?」
 リヨンは力なく頷くと、静かに語り始めた。
 「私は…獣を硬直させることに、どうしても納得がいかなかった…。野生として生きる獣の動きを、私たち人間が操る必要がどこにあるの?って。だから、一族を破門されてこの国に来たときは、ほっとしたの。もう、あの笛を使わずにすむんだもの。…でも、『生けにえノ刑』のやり方を知ったときには、目の前が真っ暗になった…。ランギョに、生きたままの人間を喰わせるなんて…。」
 よほど辛いのだろう。
 リヨンは、静かに目をつぶっていたが、やがて目を開けて、再び話し始めた。
 「それは…止め笛を使うのと、同じだと思うわ…。この世に生まれた生き物を、私たち人間の勝手な思惑で操るんだもの。『この生き物は危険。』…そんな風に理由をつけられては、操られる獣を、幾度も見てきたわ。そんな獣たちを見るのは、あまりにも辛かった。…それに、ランギョにとって、生身の人間は毒なの。だけどランギョは、生けにえとして入れられた人間を、毒だとは知らずに食べてしまうの。だからかな…『死ノ池』で、これまでに幾度も幾度も、ランギョが死んでいるのが見つかっているそうよ。本当はね、魚が餌なのよ。魚と人間なんて、天と地ほどの差があるわよね…。本当に、可哀想に…。」
 シャラは、はっとした。
 やっとわかった。さっき母が言っていたことの、本当の意味が…。
 ―可哀想に…。
 あのとき母は、受刑者に対して、言っていたわけではなかったのだ。
 あれは、何も知らずに、人間という毒を食べさせられている、ランギョに対して、言っていたのだ。
 「危険だから」という、人間の勝手な思惑によって、生と死を操られる、哀れな獣に対する、母の思い。…それは、シャラも同じだった。
 幾度も、城のバルコニーから見てきた、「生けにえノ刑」の様子。
 そのときは、受刑者に対しての、あわれみの思いしかなかった。
 だが、ランギョたち獣が、人間にされてきたことや、母の思いがわかった今になって、ランギョが、とても可哀想に思えてきた。
 (…お母様は、ずっと悩まれていたのね…。)
 止め笛を持ちながらも、あまり使うことをしてこなかった、リヨン。
 そのかわりに、時折あの笛を取り出しては、握りしめて、静かに泣いていた。
 あのときは、母の気持ちは全くわからなかったから、何かあったんだろう、という軽い気持ちだったが、あのとき、そんな軽率な思いを持っていた自分が、急に恥ずかしくなった。
 ―母は、一体どういう思いで、あの笛を持っていたのだろう。
 自分だったら、耐えることができる気持ちだろうか。
 (できない…絶対にできない…。)
 だからこそ、アーシュと出会ってすぐに、寄り添うことを決めた母の気持ちは、本当によくわかる。
 きっと、自分が同じ立場だったとしても、そうしただろう。
 どこまで、苦しい思いを抱えて、ここまで暮らしてきたのだろう。
 初めて知る、母の思いが伝わってきて、苦しかった。
 そのまま何を言う気にもなれず、結局、重い空気の中で、夕餉を終えた。
 
 寝る時刻になると、リヨンは静かにシャラの寝具に入ってきて、ぴったりとくっついてきた。
 外は肌寒いため、とても温かかった。
 「ほら…あったかい。外は寒いからね。風邪をひかないように、気をつけなくちゃ。」
 「あの、お母様…。」
 「ん?」
 リヨンが寝返りをしているのを感じながら、シャラは続けた。 
 「…私が『青ノ瞳』をしているってわかったとき、どう思ったのですか?」
 リヨンはその瞬間、凍りついたように、はたと動きを止めた。
 シャラが、思っていた通りの反応だった。
 ずっと、気になっていたことだったのだ。
 兄のスフィルは、目の色も、顔も、亡き父・アーシュにそっくりだった。
 たとえ六年経ち、顔はうっすらとしか出てこなくとも、それだけははっきりと覚えている。
 だからこそ、普通に笑っていて、外にだって、なんの気兼ねもなく、出れていたのだろう。
 だが、その七年後に生まれた自分は、リヨンの目の色―「呪いノ民」の目の色―を、引き継いでいたのだ。
 周囲に忌み嫌われている民族の目と、全く同じ色の目を持つ…誰だって、そんな子供が生まれれば、育てることは、躊躇するだろう。…ましてや、それが王家の子なら、なおさらだ。
 後に、国を治めねばならぬ立場の人間が、そんな目をしていれば、必ずどこかで、反感を買う。
 つまり自分は、生まれてすぐに殺されていても、おかしくなかったのだ。
 しかし、こうやって現実に生きている。
 どこまで、自分を育てることを迷ったか、想像もつかない。
 だからこそ、いつしか聞いてみたいと、思っていたことだった。
 しばらくの間、リヨンは息をするのも忘れ、静かに考えていたが、少し息をつくと、静かに語り始めた。
 「そうね…私の子だって、思ったわ。誰が、なんと言おうと、私とシャラは、血の繋がった親子だって。もちろん…迷ったわ。私の目の色を、引き継いでいるんだもの。私は、ずっと差別されてきた。私と同じ思いは、してほしくなかったからね…。でも、愛する我が子よ。育てるに決まっているじゃない。…ねえ、シャラ。」
 「何?」
 「…愛してるわ。あなたとの…この時間がずっと続くといいのにね…。おやすみ。いい夢を…。」
 「うん…お母様もね…。私…今、幸せです……。」
 シャラは、眠りについていきながら、静かに思った。
 母の思いが、わかって良かった、と…。
 この、母の思いを知らなければ、この先の自分の考えも、ずっと同じままだっただろう。
 シャラとリヨンは、「呪いノ民」ではないにしろ、その目の色を持つ、他に例のない者だ。
 だが、そんな苦しい形で生きているからこそ、二人の間には何かしら通じるものが、これまでにもあった。
 それでも、この夜、二人が話したことで、また二人の絆は深まった。
 リヨンの思いと、シャラの思い。
 二つの気持ちが一緒になると、ここまで温かい居場所ができるのだ。
 この二人は、この先もずっと、お互いの気持ちを通じて支えあっていくだろう。
 シャラは、安らかな気持ちで、静かに眠りについていった。
 
 闇の中に、シャラの寝息が聞こえる中、リヨンは、そっと起き上がった。
 シャラの寝顔を見て、さら…と髪を撫でると、起こさないように、ゆっくりと寝具から出た。
 アーシュの部屋に行き、戴冠式の時、アーシュと、共に撮った写真の前に立った。
 「ねえ…あなたがいなくなってから…シャラは強くなったよ…スフィルは、元気かな…。また、あなたに会いたいわ。私、今、とても幸せよ…。シャラがね…『幸せだよ』ですって…。あの子を育てて…本当に良かった…。」
 静かに、目から涙が流れ落ちた。
 この幸せが、明日の朝、一瞬にして崩れ去ってしまうことなど、シャラには、絶対に予想できなかっただろう。
 明日、明後日…自分に起きることを思った時、突然、恐怖でいっぱいになり、足に力が入らなくなり、立っていられなくなった。
 がくっと膝をつくと、身体を丸め、頭を抱えて呻いた。
 (シャラ…ごめんね…ごめんね…こんな母親でごめんね…)
 これが、自分の運命なら、受け入れるのみ。
 そう思っていたのに、涙が止まらない。
 シャラを、置いていかねばならない、なんとも言えない苦しさが、胸の奥にある。
 何をしても、抜けぬ苦しさだった。
 「生けにえノ刑ノ書」を読んでから、いつしか、こういう日が来ることは、覚悟していた。
 カウン国の王ならば、受け入れるしかない運命だからだ。
 だが、まさか、明日になってしまうとは…誰が予想出来ただろう…。
 シャラは、まだ十。
 一人ここに残り、この国を治めねばならない娘を思うと、胸が焼けるように痛かった。
 泣いて泣いて、泣きつくすと、ふうっと息をついて、時計を見てから、ぼんやりと窓の外を見つめた。
 時刻は、三時になろうとしていた。まだ、外は闇に包まれている。
 (これで…いいのだろうか…)
 そんな思いが、ぽつっと落ちた。
 シャラは、幸せに暮らせるだろうか。これから、この国を治めていけるだろうか…。
 自分に、何も伝えられぬまま、たった十歳で、王位を継承する。
 それほど、辛いことは無いはずだ。
 その時、ガチャ…という音がして、戸が開いた。
 「なんだ…ここにいたか。おい、連れていけ。」
 一瞬、何事かと思ったが、はっとした。
 (刑ノ…迎え…!ということは…あの人は、執行人…!)
 逃げようとしたが、思いっきり両手を掴まれて、後ろに回された。
 「―ッ!」
 肩に走る激痛に耐えながら、相手の顔を見た瞬間、血の気が引くのがわかった。
 「嘘…でしょう…?あなたが…執行人だというの…?」
 執行人は答えず、リヨンのみぞおちに、膝蹴りをくらわせた。
 「うっ………!」
 がくっと、リヨンの膝と首が曲がり、身体から、力が抜けたのが見えた。
 執行人は、小さくため息をつくと、顔を歪めて、呟いた。
 「…あなたが、どれほど絶望感に苛まれるか、私には見えます。お許しください。これが、私の本当の顔なのです。」
 そのあと、すっと真顔に戻ると、部下達に指示を出した。
 「…運べ。くれぐれも、王女には知られないようにな。運んだら、拷問を開始しろ。ランギョに喰わせるには、弱らせないと、どうしようも出来んからな。」
 部下達は頷くと、気を失って、動かないリヨンを引きずりながら、ゆっくりと部屋を出ていった。
 執行人は、少し部屋を見渡し、アーシュの肖像画を一瞥すると、軽く一礼して、部屋を出ていった。
 一方、シャラの部屋では、何も知らないシャラが、ぐっすりと眠っていた。
 幸か不幸か、寝返りひとつ打たないシャラは、起きるまで、決して気が付かないだろう。
 横に、母親のリヨンの姿が、もう既に無いことを…
 部屋の時計が、三時半を示した時、リヨンは、ふと、目を覚ました。
 外に出ていて、誰かに運ばれていくのが、わかる。
 静かに微笑むと、呟いた。
 「…シャラ…幸せになって…」
 涙が流れ落ちたのを最後に、リヨンは、再び気を失った。
 空には、星が散りばめられていた。