そこから、三年の月日が経った。
 「スフィル。虹が出てるよ。」
 「え?わ、すげえ。」
 無意識にシャラを見て、スフィルは、はっとした。
 長い茶色の髪を結び、色白の顔に、青く光る瞳、すらっと細い手足、高い身長…。
 リヨンに、そっくりだった。それに、申し分ない美しさだ。まだ、王女の風格が消えていないのが、こうして見ると、よく分かる。
 十三歳となったシャラは、三年前と比べて、背も伸び、かなり大人っぽくなっていた。竪琴作りも、すっかり上手になっている。
 (俺も二十歳か…家を出てから、既に九年が経っているんだな…戻れぬまま…九年…か。)
 スフィルは、空に浮かぶ、色鮮やかな虹を見ながら、そう思った。
 もう、王家には戻れないが、別に良かった。
 今のままで、シャラと暮らせているだけで、十分幸せだった。
 だが、幸せと安全は、全く別物だ。
 シャラの身の安全を考えると、このままでいいのか、と葛藤してしまう。
 (言うしかない…苦しいけど…あいつを守るには、こうする他ないんだ…)
 自己暗示をかけ、あることを心に決めたスフィルは、シャラとの日々を、これまで以上に、大切に過ごした。
 そこから、数日が経ったある日の夕餉のあと、スフィルは、シャラに、静かに問うた。
 「シャラ…学舎で、学んでみないか?」
 それは、ずっとスフィルが考えていたことだった。
 シャラに、自分が持つだけの知識を使い、学問を教えていたときに、ふと気づいたのが、学舎に入れば、もっと伸びるのではないか、ということだ。
 シャラは、元王家の娘、ということだけあって、かなり頭が良い。
 スフィルが渡した本を、どんなに難しくとも、すぐに読み終えるほど、学問が出来る。
 スフィルの元で、学ばせるには、惜しい頭脳だった。
 スフィルには、山の上にある、ウォーター学舎という学舎で、若くして学長となった、一人の知り合いがいる。
 そこで、シャラが学問を学ぶのは、決して、苦労することではないだろう。
 自分も、この国に来た時、竪琴店に弟子入りしたあと、ウォーター学舎に入った身だ。
 そこで、その人と出会った。
 よきライバルであり、よき友だった。
 だが、二人の身の上話をしていくうちに、とんでもないことに気がついた。
 それ以来、学舎を退学してから、もう会っていない。
 たびたび、手記ノ紙のやり取りをするだけだったが、緊急の時には、必ず助ける、と言ってくれている、優しい人だ。
 しかし、学ぶにしても、問題は暮らすところだ。
 ここにとどまり、カウン国から追われているシャラを、森を超えて、通わせるのは、かなり危険だ。
 ここに、自分ならば、とどまれる。
 だが、シャラのことは、ここから離さなければならない。
 そのぐらい、ここはシャラにとって、危険な場所でもあり、シャラは、カウン国にとって、重要人物なのだ。
 いつ、リーガンが探し始めるかが分からない。見つけられるか、分からない…そんな状況下で、この三年を過ごしてきたが、森を抜ける時に、カウン国の兵を見かけることが、一年経つごとに、どんどん増えていった。
 国中を探せば、スフィル・カウン、シャラ・カウンなどという、王家の血筋を持つ者は、すぐに見つかるはずだ。
 ただ、運良く、三年間は見つからなかっただけだ。
 もう、いつ見つかっても、おかしくなかった。
 だからこそ、打てる対策は打っておかないと、大変なことになってしまう。
 幸いにも、ウォーター学舎は山の奥にあるため、全寮制だ。
 その寮で暮らした方が、シャラにとって安全なのは、言わずともわかる事だ。
 シャラはうつむいて黙ったまま、それを聞いていたが、やがて顔を上げ、静かに言った。
 「学びたい。」
 学ぶことは大好きだが、スフィルや王家から学べることは、限られてくる。
 そう考えると、もう少し学びたいということを、願わずにはいれない。
 だが、学舎で学べば、スフィルと離れて住むことになるのは、確実だ。
 (三年…)
 まだ、三年だ。
 六年分の時間を取り戻すには、もっと多くの時間が、必要だった。
 でも、スフィルの考えを聞いていると、心が揺れた。
 母と自分を裏切り、処刑したリーガンとなど、二度と会いたくなかった。
 たとえそれが、自分を連れ戻すためだったとしても、だ。
 黙ったままのシャラを見て、スフィルは、静かに話し始めた。
 「シャラ。よく聞け。俺は、お前と離れたいなんて、思ってない。当たり前さ…お前のことが、大切だから。俺とお前は、七歳も離れているけど、兄と妹だろ?それに、俺にとって、今や唯一血が繋がった家族は、お前しかいない。確かに…再会してから、三年しか、経っていない。もちろん、俺だって、もっとお前と暮らしたい。だけど、ここまで見つかることもなく、こうやって、今、お前と一緒に暮らせていること自体、ほとんど奇跡なんだ。トワラ星なんて小さい星だし、一つ一つの国も小さいんだ。もう、見つかるのは時間の問題だ。そんなことになれば、お前も俺も、ただじゃすまない。俺は、母上を処刑した、その張本人が治めているカウン国なんかに、戻る気はない。それどころか、今すぐ復讐してやってもいいぐらいさ。だが、お前や俺が見つかれば、連れ戻される。それは、間違いない。俺はどうなってもいい。だけど、お前のことは守りたい。辛いことだとは思うけど、決断してくれ。」
 シャラの目から、涙が流れ落ちた。
 「そんなこと…」
 出来ない…シャラは、そう言いたいのだ。
 スフィルには、シャラの気持ちが、嫌というほどわかった。
 シャラにとって、スフィルは唯一の血縁関係であり、絶対に離れたくない存在なのだ。
 それは、スフィルも同じだった。
 目の前で、母親が命を投げ出してまで、自分を助けたところを見ているシャラ。
 今回も、ほぼ同じ状況だ。
 自分の身を犠牲にしてまで、シャラを助けようとしているのだから。
 シャラが躊躇する理由はよくわかる。
 だが、なんとしてでも、シャラのことは、ここから離さないといけない。
 シャラの身に、何かあってからではもう遅いのだ。
 スフィルはシャラの目を見据え、泣きながら懇願した。
 「こんな…お前を苦しめることなんて、やりたくない…だけど、お前が連れ戻されるなら、離れて暮らす方が、どれだけましな事か…頼む…頼むよ、シャラ。心を決めてくれ。」
 シャラは、ぐっと手を握りしめて言った。
 「…わかった。」
 スフィルは、それを聞くなり、頷くと、涙を拭いて、書き物机に向かうと、手紙を書き始めた。
 『サリム、覚えているか?スフィル・カウンだ。急なことなんだが、俺からの一生の頼みと言ってもいい、重要な頼みがある。単刀直入に言う。妹のことを、ウォーター学舎に入れたい。緊急的な状況なんだ。こんなの規則違反だ。よくわかっている。だが、思いきって言えば、妹の命がかかっている。このまま、俺のそばに、妹を置いておきたくない。妹はかなり危うい立場にいる。急なことで本当に悪いが、検討願いたい。返事を待っている。スフィル』
 シャラが、迷いに迷って、決断してくれたのだ。
 何としてでも、入れなくちゃいけない。
 
 返事が返ってきたのは、それから二日後だった。
 『親愛なる、スフィルへ
 状況は、よくわかりました。あなたの言う通りです。これは規則違反であり、入舎ノ考査を受けさせるわけにはいきません。ですが、あくまでも原則です。原則があれば、例外があります。よって、今回の件は、スフィルの頼みであること、理由が理由、ということで、特別に、入舎ノ考査を受けることを許可します。準備が整い次第、連絡を入れてから、こちらに来なさい。そちらがそのつもりなら、こちらも準備を整えて待っています。サリム・レッカー』
 その手紙を、シャラに読み聞かせた。
 「サリムは、俺の古い友人だ。今は、ウォーター学舎の学長をやっている。明日にでも向かおう。」
 シャラは頷いたが、目はうつろだった。
 夜は、なかなか寝つけなかった。
 明日、考査を受ける。
 その先は考えたくなかった。
 また別れになるなんて…本当に早すぎる。
 『心を決めてくれ』
 そう言われると、反論できなかった。
 自分よりも、過酷な道を、ここから歩むのは、他の誰でもない、スフィルだ。
 これまでに、決断してくれだの、頼むだの、そんな言葉を言われたことは、全くない。
 それほど、自分は危険な立場にいるのだろう。
 スフィルは、一人で生きてきた時間が長い分、自分よりも、頭の回転はかなりいい。判断力も、間違いなく上だろう。
 そう考えると、スフィルの言うことに従った方が、安全だと思った。
 (スフィル…)
 先のことを考え、自分の身を犠牲にしてまで、シャラのことを助けようとしている兄…
 (あなたは、お母様と、同じことをしているのよ…!)
 声に出して叫びたかった。
 「生けにえノ刑」で、三年前に、あっけなく命を落とした、母、リヨン。
 母はあのとき、その身を犠牲にして、自分のことを助けた。
 今回も、同じ状況だ。
 兄が、その身を犠牲にして、助けようとしてくれている。
 目から、止めどもなく、涙が溢れ落ちた。
 (もう嫌だ…)
 これ以上、大事な人を失いたくない。
 ましてや、ほんの三年前に再開した、スフィルとなど…。
 幼い頃から、外に出れば、目の色で差別された。
 差別など、されて嬉しい者など、絶対にいない。
 あれほど考えて決断したというのに、怖くてたまらない。また差別されるのかと思うと、胸が痛かった。
 王家の血を引く自分と、平民…明らかに違いすぎる、身分の差。
 その差の中で、落ち着いて学問を学べるのか…。
 そんなこと、できる気がしなかった。
 (たとえ、連れ戻されても…スフィルといれるなら…それでいい…)
 スフィルには、決して言えない本音が、胸を満たし、また涙が溢れた。
 苦しかった。
 いつから、こうやって、本音を隠してきただろう…相手のことを気遣うあまり、何も出来ない日々…。
 母を失ったのも、助けれなかったのも、助けた時の、見返りが怖かったからだ…。
 (私は…屑だ…リーガンと同等…もしくは、それ以上の屑人間だ…。)
 怯えていては、何も出来ない。ずっとそうだった。変わらなくちゃいけない。
 分かっているのに…学舎に入るのには、どうしても抵抗がある。
 自分の安全のためにも…スフィルのためにも…ライリーなどの、大切な人のためにも…ここから、離れなくてはいけないのに…。
 (せっかく会えたのに…あの再会は、なんだったんだろう…)
 そんな思いがこみあげた。はっとして、起き上がると、激しく首を振った。
 (こんなこと、考えちゃだめ。スフィルも言っていた。ここまで、三年間、何も無く過ごせたのは、紛れもなく奇跡だって。)
 とさっと、もう一度、寝転がると、ふっと思った。
 (何事も、奇跡でいっぱい…この世は…奇跡でできているのかな…)
 今、自分が生きていることも、ここまで平穏に暮らせたことも…全て奇跡なのかもしれない…。
 (たとえ、奇跡だとしても…この奇跡は…あまりにも、残酷すぎる…)
 声を出さずに、静かに泣いた。胸が痛かった。
 シャラは、重苦しい気持ちで、眠りについていった。