「よろしくお願いします」

梨田が端から順に挨拶していき、駒落ち(ハンデ)の確認をしながら駒を並べていく。
その後参加者は自分のタイミングで一手指して梨田を待つ。
梨田は一手指しては次の盤へ移動していくのだ。
そうしてほどなく梨田は香月の前にやってきた。

「こんにちは」

かける言葉に迷ったような一応の挨拶を梨田がして、

「あ、はい、こんにちは」

久しぶりに会ったお隣さんのように、複雑な空気をかもしつつ、深く頭をさげた。
駒袋から駒を開けながら、梨田はいたずらっぽく笑う。

「カズキは平手でいいよね?」

奨励会にも入っていないアマチュアがどれほどのものなのか、梨田は香月本人よりもよく知っているはずなのに。

一瞬躊躇ったあと、駒の山の中から、梨田が王将を摘み上げる。
続いて香月が玉将を探して拾った。
たくさんの駒の中から、目指す駒をもたつかずに探せるのか。
香月は少し不安になるけれど、梨田は迷いなく人差し指と薬指で金将を拾う。
手首をクイッと曲げて高く持ち上げると、同時に親指を添える。
そこから中指と人差し指の二本で挟む形に持ち替えて、すとんと真っ直ぐにおろす。
見よう見真似で指していた小学生時代には、ぎこちなくて不格好だったその仕草は、洗練され、自然だった。

手に見惚れ、また必死に駒を探してついていくうちに、盤上には40枚の駒がきっちり並んだ。
香月は顔をチラリとうかがい、梨田の飛車、角行、さらに香車二枚を盤外に寄せた。

「へ?4枚落ち?」

「あれから全然やってないの。桂馬も落とそうかな」

「あれから?全然?」

「あの夜が、最後」

あまりに予想外だったのか、梨田の顔から微笑みが落ちた。
急に気温が下がったような気がして、香月はあえて目を合わせ、気にしないで、というように微笑む。

「梨田先生、6枚落ちでお願いします」

再度告げると、梨田はふっと笑って了承の意を示した。

梨田とこうして盤を挟んで向き合うのは、これで3度目。
そして、最後。
神様のきまぐれで、たまゆら重なったふたりの時間は、あと一局分だった。

「よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

唱和した梨田は、けれど「あ!」と言ってその場を離れた。
戻ってきたその手には、駒のストラップが握られていて、苦労しながらその濃紺の紐を外している。
自分の王将と入れ替えたのは、ストラップ用に小さな穴の空いた〈玉将〉。

「カズキといつでも対局できるように、持ち歩いてたんだ」

「もうプロなんだから、王将でいいでしょう?」

「カズキは俺の目標だからね」

「ずっとずっと昔の話だよ」

ひとつだけ穴の開いた駒に、中指の先を触れさせて、梨田は首を横に振った。

「カズキはいつまでも、届かない人だよ」