「香月ちゃんが来たら平手(ハンデなし)で、って言われてるんだよ。最大のライバルだったからね」

記入しながらげんなりと目を細める。

「いつの話ですか。もうとっくに負けてますし」

「こんな趣味でやってるような道場から、まさかプロ棋士が出るなんてねー」

池西がしみじみと見回す道場内には、みっちりと人が集まっている。
高校将棋部の生徒やアマチュア強豪の人が指導に来ることはあっても、プロを呼んでイベントをやるような大きな道場ではない。
普段2、3人の小学生と、常連さんしかいないので、こんなに賑々しい風景を、香月は初めて見た。
これはすべて梨田の存在ゆえのものなのだ。

「やっぱりすごいですね、プロ」

「あのままここにいてもプロにはなれなかったと思うけどね。それなのに覚えていてくれて、指導にも来てくれた。本当にありがたいことだよ」

あの頃必死で切磋琢磨していたつもりでも、お互いにたいした棋力はなかった。
梨田が力をつけたのは、東京に戻って大きな将棋センターに通うようになってからだ。

それでもきっと、梨田は義務感ではなく、好きでここに来ている。
香月の知っている男爵はそういう子だった。

けれど、梨田の出身は東京だし、住んでいるのも東京。
ほんの一時縁があったとは言え、ここに来ることはもうないだろう。



『梨田史彦先生、四段昇段おめでとうございます』と書かれたホワイトボードの向かいに、将棋盤が三面並び、それとL字になるようにさらに二面置かれている。
指導対局は持ち時間30分。
5人一度に、何回かに分けて行われるらしい。

香月は一番最初の回で、二面並んだテーブルの一番端に座った。
見学の人や指導対局を待っている人は、将棋を指したり、雑談しながら時間を待っている。
香月はホワイトボードの『梨田先生』の文字を、感慨深い気持ちで眺めていた。


「お待たせしました!」

受付にいた男性に案内されて、梨田が道場に入ってくると、その場にいた全員が立って拍手で迎えた。
入り口で深く礼をした梨田は、

「棋士の梨田史彦です。本日はよろしくお願いします」

と奥まではっきり聞こえる声で言った。
それからたくさんの拍手に笑顔で応え、香月と視線が合ってふわっと笑う。
その笑顔を受けて、香月も笑顔を返した。

やく束は守もりました。


もう二度と会うことはないと思っていた。
それでもふたたび出会ってみると、ただこの一局のためにこれまでがあったような、そして明日にはすべてが幻になってしまうような、そんな気持ちにさえなっていた。