香月が再び駒を並べると、梨田も手袋を脱いで雪の上に置いた。
固い筋肉を動かして、ぎこちない笑顔を向け合う。

「よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

先手である香月が角道を空ける。
梨田もそれを見て、すかさず角道を空けた。

たった一手。
歩をひとつ進めただけのその手で、梨田は将棋の世界に没頭した。
先手の利を生かして攻撃的に進める香月の手を、軽くかわす。
そして揺さぶりをかけるように攻めの手を繰り出した。

いつも確信を持って指す香月の手が迷う。
それでも惑わされることなく、さらに前に出てきた。

「え!この手、受けないの?強気過ぎるよ、カズキ」

「だって、強く出ないと受け切られそう」

駒を掴む香月の指先は寒さでぎこちなく、真っ赤に染まっている。
それでも、そこには灯がともったような強さがあった。

梨田の指先もすでに感覚がなくなっていて、わかるのは駒音と、ほのかな雪の匂い。


香月の攻めが切れるのを待ち、そこから一気に攻撃に転じた。
受けが苦手な香月は、とたんに動揺し出す。
そうして生まれた隙に、梨田の角が香月の玉に迫る。
香月の長いまつげが、驚きに震えた。
梨田の飛車の位置や桂馬の打ちどころ、歩の突き捨てばかり考えていて、そっちは見えていなかったらしい。
焦って逃がした王の先に、ずっと狙っていた桂馬を打ちこむ。

盤上は明らかに梨田が支配していた。
めちゃくちゃな手を指してくる級友と違って、香月は真っ直ぐ一本筋道の通った手を指す。
だからこそ、次に考えることが手に取るようにわかった。
常にその一歩先に、梨田は駒を進めていく。
香月が気を取られた手と、別の駒を追い打ちで差し向けた。

白い息を盤に落としながら、香月が駒を逃がす。
サラサラとした髪の毛が顔を覆っていて、梨田にその表情は見えない。


ふいに、香月が両手を祈るように合わせ、真っ白な息を吹きかけた。
何度かすり合わせるようにした後、梨田から顔を隠すように横を向く。
その目元で光るのは、あの雪ではない。
顔を上げた香月は、キラキラと膜が張った目を細めて、まぶしいほど清らかな笑顔を見せた。

「負けました」

冴え渡ったこの夜空と同じように清々しい声だった。
凍てつく雪の中では特別に響くような。

こんなに心に沁みる笑顔を見ているのに、梨田の胸は痛みでいっぱいだった。

「ここで?まだ、続けられるのに」

盤を見るように目線を落として、香月は首を振った。

「もう無理。勝てない」

絶望的に適わないと思っていた香月には、いつの間にか届いていた。
早い投了ではあったけれど、梨田の勝ちに間違いはない。

だけどこんな投了は初めてだった。
そして、投了されて嬉しくなかったのも初めてだった。

「カズキは、諦めるときは潔いんだな」

空気をさらに凍らせる言葉にも、香月は反応せず、盤を見たままだった。