「すごい、蝉」

赤信号で停まったとき、窓に軽く手を触れながら香月がつぶやいた。
視線の先には、官公庁街に突然森を植え付けたような公園がある。
もともと病院だった土地をそのまま公園にしたせいで、人の目からすると少し不自然に見えるけれど、蝉には関係ないらしい。

「ああ、今年は蝉が大量発生したみたいだね」

香月と父の会話で、初めて蝉の声に気づいた。
気づいてみると確かに大きい。
これまで聞いたこともないほど、数も多いような気がする。

「そういえば、最近は蝉時雨なんて聞かなくなったなー。香月ちゃんは聞いたことある?すごくいっぱいの蝉の声」

蝉の声に掻き消されそうなほど小さく、香月は首を横に振った。

「じゃあ、ちょっと寄り道して山の方に行ってみようか。今年なら聞けるかもしれないから」


父が向かったのは、雪が積もるとスキー場となる場所だった。
その駐車場の脇から細い遊歩道が続いている。
公園と呼べるほど大きなものではないが、滑り台とぶらんこ、鉄棒といったわずかな遊具があるスペースと、もっと上には神社もあるらしい。

「やっぱり、こっちの方がすごいなー」

父が言うように、車のドアを開けた瞬間から、わんわんという蝉の声に包まれた。
遊歩道は一応整備されているものの、少し進むとほとんど森の中。
蝉の声は更に濃度を増し、もう自分の足音さえ聞こえない。
山全体が鳴っているような騒々しさなのに、自分ひとりにしか聞こえない耳鳴りのようにも思える。
すぐ近くにいるはずの父や香月の気配すら薄くなり、時間も場所も曖昧になった。

「なんか、こんなにうるさいと、逆に静かだね」

耳元のすぐ近くで香月の声がした。
蝉の声で聞こえないと思ったのか、耳に吐息がかかるくらいの距離だった。

驚いた梨田が勢いよく振り向くと、香月は今日初めて楽しそうに笑って、降ってくる音を目で追うように空を仰いだ。
その顔に、ブナの葉陰がやわらかく揺れる。

わんわんと蝉の声が渦を巻く。
その中で、楽しそうに目を輝かせる香月と「プロ棋士になりたい」という声だけがくっきりと感じられた。