宵の朔に-主さまの気まぐれ-

「いい匂い」


与えられた部屋で床に横たわって身体を休めていると、何やら香しい良い匂いがして起き上がった。

…目は見えないが心眼の持ち主であるため、物をはっきり見ることはできなくてもまっすぐ歩くことができるし、ぶつかることもない。

それにある程度相手の心をも盗み見ることができる。


「姫ちゃん、ご飯の準備ができたから一緒に食べよ」


「え…ひ、姫ちゃんって…私のことですか?」


「そうだよ。私はこれからあなたのこと姫ちゃんって呼ぶね」


話しかけてきたのは朔の母である息吹で、手を引かれて立ち上がった凶姫は戸惑いながら口ごもる。


「私は食べなくてもだいじょ…」


「うんそれは知ってるけど、でも味覚もあることも知ってるよ。口で何か食べるときっと色々あったかくなるから」


「色々…」


促されるまま手を引かれて居間に移動した凶姫は、そこに朔や柚葉や朧、雪男や銀たちが居る気配を悟って足を止めた。

…彼らも一様に物を食べなくても平気なはずなのに何故こうして集まるのか?


「不思議そうな顔してるな。これは我が家の家訓だからここに居る限り従ってもらおうか」


「月…これは一体…」


柚葉の隣に座った凶姫は、食卓を挟んで真向かいに座っている朔が笑っている気配を感じてまた戸惑う。


「皆で食事をする…それが我が家の家訓だ。朧や母様がここに居る時はそうしてもらう。ほら、箸持って」


…温かい。

湯気が立つ食事が続々と運ばれてきて、そのあまりにも香しい匂いに箸が伸びた凶姫は、豆腐入りのお吸い物を口に運んでぱっと顔を輝かせた。


「美味しい!」


「お口に合って良かった。はいみんなで食べましょう。雪ちゃんは冷ましたものがあるからね。みんなお代わりあるから遠慮なく食べてね」


遅れてやって来た氷輪や白雷も加わり、わいわい賑やかな声が上がる中--凍てつきかけた心が氷解して音を立てて行くのが分かった。


「あったかい…」


こんなにも、あったかいものがあるだなんて。