宵の朔に-主さまの気まぐれ-

元からして、その男とは絶対に戦いたくはなかった。

身の毛のよだつ声色を発した輝夜に戦慄を覚えた黄泉は、凶姫の手を強く握り直して背後に作った次元の穴に向かって一歩後退した。


「お前は首を突っ込むな。天の者の使いが地上の騒動に介入していいと思っているのか」


「…今まで私もそう思っていました。ですが私が見た未来とは違う。お前は求めてはいけないものを求めている。さあ、手を離しなさい」


――凶姫がこうなること自体…実はぼんやりとではあるが、見えていた。


見えていないのは…柚葉の未来だ。


これから黄泉に殺されてしまうのか、それともなんとか生き延びてくれるのか――座り込んで動けない柚葉と黄泉との距離は目と鼻の先で、いとも簡単に殺せる位置に居る。


…この戦いは自分の戦いではない。

最初から手を出すつもりなど毛頭なかったが――何か失ってはいけないものを失いかけているような焦燥感に襲われていた。


「断る。貴様、冥をどうするつもりだ」


「そこのふたりと引き換えに」


「はっ、価値の重さが違う。俺は芙蓉を見つけて以来奪った目に見合う傀儡を作ろうと四苦八苦していたが一向にできなかった。ならば、芙蓉に目を返して傀儡にして傍に置くか…今や両腕のない冥とは価値が違う」


…傷ついた。

さすがにそれが堪えた冥は首筋に刀をあてられたままうつむき、刃が僅かに食い込むと、輝夜はやや刀を引いて首が落ちるのを避けた。


柚葉はそれに気付いた。

この人は優しくて傷つきやすくて、脆い。

殺しなど本当は絶対にしたくないだろうし、もし殺してしまったならば深く傷ついて、誰も居ない所でうずくまって声を押し殺して泣くのだろう。


「……鬼灯様…」


その呟きは微かではあるが、輝夜に耳に届いた。


「お嬢さん…?」


「私があなたを守ります。そして姫様も」


「え…?」


もはや柚葉などに興味の欠片もない黄泉が勝ち誇った笑い声を上げて柚葉に背を向けて凶姫の手を強く引いた。

柚葉は助かる――一瞬輝夜は朔に罪悪感を感じながらも安堵したが――


「うぅ…っ!?女…っ!貴様…!」


萎えた足腰を叱咤して立ち上がった柚葉は、胸元に隠していた短剣を手に完全に無防備な状態になっていた凶姫を掴んでいるその手に向けて力の限りを込めて、振り下ろした。


血しぶきを上げて黄泉の肘から下の右手が地面に転がった。

柚葉はさらに思い切り力を込めて、黄泉に体当たりをして次元の穴に突き飛ばした。

その反動で柚葉もまた、次元の穴へ消えて行く。


「お嬢さん…!」


「柚葉……っ!」


輝夜と凶姫の悲鳴が重なった。