宵の朔に-主さまの気まぐれ-

当主になり、毎夜百鬼夜行を行うようになってからというものの、椿に習った体術を使うことはほとんどなく、腕は鈍っているものと思っていた。


――だが黄泉から傷を受けてから現在に至るまでの間、百鬼夜行に出られず毎日精神集中をして研ぎ澄まされた潜在能力は…振り切られていた。


「!はや、い!」


十数歩の距離があったはずなのに目と鼻の先に朔の穏やかな笑顔があり、仰け反るようにして胸目掛けて放たれようとしていた掌底を避けた椿は、次に右足に足をかけられて転倒しそうになって左足で地面を強く蹴って一回転して猫のように着地した。


「あなたの弟子なんですから、無様な姿は見せません。師匠…あなたのその身体、血が通っていませんね?さっき触れられた時に分かっていましたが…あなたはやっぱり…死人なんだ」


「だから蘇えさせられたと言っているだろう。私の執念を嗅ぎ付けたそこの主が拾ってくれるというから恥を忍んでやって来たんだ。朔…私を憐れんでくれるのなら、死んでくれ」


予備動作もなく高く舞って強烈な蹴りを頭目掛けて繰り出したが、腕でそれを防いだ朔はその重たい蹴りに一瞬腕が痺れながらも、戦いの最中で血が沸騰してくるのを感じていた。


「あなたとは夫婦になれません。妻となる芙蓉に悲しい思いをさせたくない。俺とあなたには男女の関係があったけど、俺は全て芙蓉に打ち明けます。だからあなたが芙蓉に何を言ってもきっと…俺を信じてくれる」


「はっ、お熱いことだな。私がどれほど悩み、どれほど足掻いて苦しんだかお前には分かるまい。今や私はお前を殺すことしか考えていない。女の心配など、するな!」


一撃一撃、鋭く重たい拳が絶えず降り注いでくる。

辛くも避け続けてはいたが、頬や首筋からは出血して、濃紺の着物もあちこちが裂けて無傷ではいられなかった。

その血の匂いを感じた凶姫は、止める柚葉たちを押し退けながら縁側まで辿り着いて叫んだ。


「朔…!」


「そんな声を出すな。振り向きたくなる」


今振り向いてはいけない。

変わり果ててしまった椿を安らかに眠らせるまでは。


絶対に、振り向いてはいけない。