宵の朔に-主さまの気まぐれ-

「さ、く……」


愛しい男の名を呼んだが――当人は目をぎらつかせてどこか空を見ているような表情をしていた。


凶姫の存在を蔑ろにしているわけではない。

どちらかといえば、今の今まで椿の存在を忘れていたかのようにして暮らしていた自分自身に怒りを感じていた。

…死んでしまうほど愛されていたこと――膝から崩れ落ちそうになるほど衝撃を受けたが、あの時もそして今も…椿を心の底から愛せるとは思えない。


「ところで兄さん、私が実は下克上を狙っていること、知ってました?次にここへ戻って来る時は兄さんを弑して我が天下をこの手に、と思っていたので今の事態は好都合なんですよ。椿、と言いましたね、私が兄さんを弑逆して差し上げてもいいですよ」


無銘ではあるが明らかに妖刀の愛刀を鞘から抜いた輝夜だったが――

朔は俯いてふっとはにかんだ。

輝夜が発破をかけていることは明らかで、柚葉の目の覚めるような叱責が心を決めさせてくれた。


「…師匠」


「お前は私が殺す。そうでないとお前と添い遂げさせてはもらえない。朔…あの頃のように私に触れてくれ」


「やめ、て…っ!」


猫なで声で朔に哀願する椿の声がべったり耳に張り付いて、柚葉にまた縋り付いた凶姫の痛ましい叫び声を聞いた朔は、一歩二歩後退して輝夜に近付くと、額を人差し指と親指で軽く弾いて笑いかけた。


「ごめん、助かった」


「礼を言うならお嬢さんに。言葉で思い切り殴られた感想はいかがですか?」


「吹っ飛ばされた。柚葉、お前はやっぱりすごいな」


「私がすごいんじゃなくて、主さまが腑抜けなんですよ」


さらに辛辣な言葉で殴られて苦笑した朔は、顔を上げない凶姫に優しく呼びかけた。


「芙蓉…後で全部話すから、俺を信じて」


「……」


「お前が俺を信じてくれないと、俺は俺自身を信じられなくなる。芙蓉、愛しているのはお前だけだ」


ようようと顔を上げた凶姫は、言葉もなくただこくんと頷いた。


それだけで、十分だった。