宵の朔に-主さまの気まぐれ-

顎に手を添えられて少し上向かせられると、口付けされると悟って身を竦めながら待っていた。

が――

一向にその瞬間はやって来ず、だが自分が少し動けば唇が触れ合う距離に居るのは分かる。


「…え……?」


「これだとまるで俺がお前を襲っているように見えるのかも」


「じ、実際に襲ってるじゃない…」


「俺は獣じゃない。同意もなくそんなことはしない」


…この期に及んでそんな屁理屈を垂れるか、と思って業を煮やした凶姫だったが――朝、朔に口付けをされた時の甘美な時間が忘れられなかったのは事実だ。

だが自分からそれを望んでいると口にするのは矜持が許さず、精いっぱい虚勢を張って鼻を鳴らすと、朔の胸を強く押した。


「意気地なし。あなたは私を助けてくれたから口付けのひとつやふたつ位許してあげようと思ったのに」


「へえ、そうなのか。じゃあ遠慮なく」


「え、ちょっと待……っ」


あっさりと挑発に乗ってきた朔に声を上げようとしたのだが――その唇は唇で塞がれた。

しかも両手をがっちり塞がれて抵抗できなくされたのだが…そもそも抵抗する間もなく、朔の舌に絡め取られて身体の力が抜けて思考も奪われた。


「…甘い」


「ゆ…月…!」


一度離れた唇にほっとして息をしようとしたのだが、また唇を奪われてずるずると倒れ込み、覆い被さるようにして続行される口付けの先に――このまま抱かれるかもしれない、と思った瞬間。


あの男の顔が頭に浮かび、朔の唇を反射的に強く噛んで突き飛ばした。


「だ…駄目…!これ以上は…駄目…」


「…俺が死ぬかもしれないから?」


やれやれといった様子で身体を起こした朔から距離を取って座り直した凶姫は、髪を手で整えながら唇を噛み締める。


「ええそうよ。…あなた今私を抱こうとしたの?」


「同意があれば」


「ふん、同意同意って慎重な男ね。これ以上は駄目よ。絶対に」


「じゃあ唇までは大丈夫ってことだな。分かった」


にっこり笑って納得してしまった朔にぎょっとした凶姫が動揺しながら言い訳を言い連ねる。


「ち、違うわ!誰がそこまでしていいって言ったのよ!言葉のあやよ!」


「嫌ならもっと強く拒絶しろ。よし、これでおあいこだな」


噛まれた唇から滲む血を指で拭いながら部屋を出て行った朔に、ぽかん。

何を言ってもこちらの言い分を聞きそうにない朔に、この先どうなってしまうのか――妙な期待と不安が入り混じってまたじたばたもがいた。