寛永十九年(一六四二年)
 これまで続いた凶作は徳川幕府
にとって初めての大飢饉となっ
た。
 民衆は田畑を売り、子まで売っ
て、それでも飢えをしのぐことは
できなかった。各地で死者が相次
ぎ、さらに状況が悪くなるという
悪循環が起きていた。
 この凶作で米相場が高騰したの
を利用し不正を犯す役人や米を買
占めて相場を混乱させる商人が横
行した。
 家光はこうした不正を犯すもの
を処罰し、倹約だけの方針を転換
して年貢などの制度を改め、民衆
救済の方策を次々に命じた。
 こうした中にも道春は諸家系図
の作成に没頭した。
 各地の武家などから集まってき
た膨大な家系図を崇伝の跡を引き
継いだ金地院の元良や道春の私塾
に書生として来ていた水戸の人見
卜幽、その甥、辻了的ら数十人が
手伝い、徳川氏の一族である松平
氏を初めとして、松平氏の属する
清和源氏から平氏、藤原氏、諸
氏、医者および茶道家等といった
順に分類した。