あのくらいの時間に帰ることなんて珍しくもない。
 それでも眠いのは、あのあと眠れずに考え事をしていたから。


 眠い体にいくらコーヒーを注いでも眠気は取れないけれど、休憩室でコーヒーを飲むことにした。
 少し遠回りをして、目を覚ましながら歩く。

 紗良の考えは分かった。
 だから……。

 歩いている通路の曲がった先から声が聞こえて思わず曲がり角に身を潜めた。
 眠気覚ましに歩いていたこの場所はあまり人が来ない場所のはずなのに。

 その声は紗良のものだった。

「どうしました?大池さん。
 こんなところまで。」

 大池さん?
 胸がざわざわして、唇を噛む。
 通りすがりの顔をして近くを通ってやろうかと、じりじりする。

「呼び出してごめんね。
 俺さ。まだ誰にも言ってないけど、転勤が決まったんだ。
 ずっと希望していた海外赴任が決まって。」

「そうなんですね!おめでとうございます。
 どこに決まったんですか?」

「タイ……ってあのさ。」

「そうなんですね。おめでとうございます。
 寂しくなりますね。」

 紗良は分かってない。
 まだ誰にも言っていない海外赴任の話をする理由を。

「それで………それで、ついてきてくれないかな?って。」

「ついて……私がですか?
 大池さんのお仕事をお手伝いできるほど仕事できませんよ!」

 とぼけられるほど紗良が器用じゃないことは知っている。
 ただその純粋さにこっちはハラハラする。

 いいから、お願いだから……紗良…。

 大池さんの覚悟は痛いほど分かって、離れているこちらまで緊張が伝わってくる。

「紗良ちゃん。俺と結婚を前提にお付き合いして、タイについて来てくれないかな?」

 身を潜めて盗み聞きしている自分は不様だった。
 正面から想いを告げる大池さんの方がずっと男前だ。

 俺は何やってんだ………。

「何を言ってるんですか!
 タイへ先に行った夏目先輩を追いかけるんじゃなかったんですか?」

「そうなんだけど……夏目先輩ももう俺のことなんか忘れてるよ。」

 よく分からないやり取りの後に大池さんが何故か俺とのことを引き合いに出した。

「最近、松田くんと仲いいよね。
 紗良ちゃんも松田くんにコロッといっちゃったわけ?
 すっげー女ったらしだって聞いたけど。」

 この手のやっかみは慣れてるし、馬鹿馬鹿しかった。
 紗良が本気にするかどうかは分からないけど、訂正したところで何を信じるかは紗良の自由だ。

 それなのに嫌な汗が流れて来て、何の汗なんだか……と嘲笑した。

「松田さんですか?
 あの方はきっと生まれ持ってのイケメンでしょうから、遊んでいて当たり前なんじゃないですか?
 イケメンなんだから何しても許されるでしょ。」

「そうだよな〜。
 イケメンってずるいよなぁ。」

 なんだよ。それ。
 こんなところに隠れてる俺を、そんな俺でもイケメンって言えるのかよ。

 聞いていられなくて、静かにその場を離れた。

 なんでも許されるのなら…………。
 紗良の気持ちを俺にくれよ。