「忘れられない人がいるんです。
 その人に褒められたから。」

 忘れられない………。
 胸が軋むように痛くなった。
 さっきの……あの男。

「さっきの人のこと聞いてもいい?」

 聞かない方がいいに決まってる。
 だけど聞かずにはいられなかった。

 長い沈黙が流れて、言われなくても話したくないことなんだということが分かる。

 しばらくして呟くように言った。

「もっと話し方もスマートな紳士的な人でした。」

 あんな男をフォローするような話を聞かなきゃいけないのか………。
 自分の顔に当てていた腕にギュッと力を込めた。

 俺が何も言わなくても紗良は話し続けた。

「私、王子様に憧れていて。
 あの人「君は僕のお姫様だ」って言ったんです。
 それで…………。」

 いくら王子様に憧れていたって。
 どんなにお姫様って言われたって。
 誰でも良かったのかよ。

「少しはおかしいなって思ったけど……。
 だけど「僕のこと『こうくん』って呼んで」って言われて……私…………。」

 こうくんだって!?

 顔に当てていた腕を下ろして紗良を見た。
 目が合うととても辛そうに微笑んだ顔が痛々しかった。

「馬鹿だったんです。
 ちょっと思い出の『こうくん』と同じ名前だったからって、あんな人に騙されて。」

 つかんだままだった紗良の手にもう片方の手も重ねた。
 小さな紗良の手は俺の手に埋もれて、その中で震えていた。

 それはたぶん自分への不甲斐なさ。
 あんな男に騙されて紗良も後悔しているんだ。

 どうして俺はあんな奴と会う前に紗良と出会えなかったんだろう。
 俺の方がよっぽど不甲斐なくて、叫びたいくらいに気が変になりそうだった。

 紗良にもっと早く会えなかった無念さ。
 紗良にこんなことを話させる愚かさ。
 何を言えば紗良が救われるのかも分からない俺は……………。

 声になるのはどうにもできない台詞だけ。

「ごめん。変なこと聞いて。もういいよ。」

 かぶりを振った紗良が悲痛な声で続けた。

「結婚……しようって。それでお金を………。
 まだ働いたばかりで、だから子どもの頃からの貯金も全部……それでも足りなくて………うぅ……。」

「もういいよ。もう………。」

 シートベルトも外さないで背中を丸める紗良をさする。
 あんな最低な奴に………紗良は………。

「だから……今日の電車で見かけた…おばあちゃん。……覚えてます?」

「電車の席を譲ったおばあちゃんのことかな。」

 涙でぼろぼろの顔をした紗良が何度も頷いた。

「おばあちゃんにまで……借りようとして………私……。
 だから街で見知らぬおばあちゃんに会うだけでも……思い出して辛くて………。
 おばあちゃんが一番………一番……応援してくれてたのに。」

 もうダメだった。
 辛くて悲しくて聞いていられなくて紗良を抱きしめた。
 強く、強く抱きしめて、悲しみが体から全部なくなるように。