「僕はね、……記憶がうまく整理出来ないんだ」


「……えっ、ナニ?」


 珠子に対し、僕は横を向いたままだった。

 とてもじゃないが、その言葉を発する時は、正面から珠子に顔を向けることは出来なかったし、そうしたかった。

 それでも珠子の表情は良く見える。人間の視界は、自分が思っていたよりも随分広かった。


「具合いが悪くてね。……進行している。きちんと覚えたことを忘れちゃうんだ。下らない事も、大切なことも。──厳密に言うと、分断されて、記憶が引き出せなくなる」


「何それ? どういうこと?」


 珠子は箸を置いて、僕の方に体ごと向き直した。


「僕にとって、今はどんな些細なことだって記憶に留めておきたい。失いたくない。なのに、それでも抜け落ちてゆく」


 僕は努めて淡々と言う。
 珠子は訳も分からずに、言葉を拾っているようだった。


「時間が無かったから、家を飛び出してきた。このままじゃ、どんどん僕の世界が狭くなって、いつかは無くなってしまうかも知れないから」


「そんなことって……」


「恩師には再会できたし、君にもこうして会えた。ポスターの中だけだと思っていた君に」


 ほんの少しだけ、珠子の方に顔を向けた。

 珠子側の眉毛を上げて、ニヤリとしてみた。


「死んじゃう訳じゃないんだ。だけど、僕が僕でなくなる。その前に……」


 僕は水滴で覆われたコップを手にした。その冷たい水滴を根こそぎ握り潰して、水をたった一口だけ、ゴクリと飲んだ。