愛し紅蓮の瞳


残された、私と紅蓮。
変に気まずさに襲われながら、口を開く。

「お、おはよう」



私は慌てて立ち上がった。

「私も行っていいの?」

「好きにしろ」

「……その言い方、感じ悪い」

「…………」

 紅蓮が振り返る。

 鋭い目で見られて、少しだけ怯む。

 でも。

「……行きます」

 私は言い切った。

 紅蓮は何も言わなかった。

 ただ、ほんの少しだけ目を細めると、そのまま廊下を歩いていった。

「ふふ」

「……何?」

「いいえ」

 楓さんが楽しそうに笑う。

「紅蓮があんなふうに誰かと話すの、久しぶりだと思いまして」

「……そうなの?」

「ええ」

 その言葉が、なぜか頭に残った。

* * *

 朝食は、私が知っている日本の食事とよく似ていた。

 白いご飯。

 焼いた魚。

 味噌汁。

 漬物。

 見た目だけなら、旅館の朝ご飯と言われても疑わない。

 でも。

「いただきます」

 箸を持ったところで、ふと気づく。

 電気がない。

 冷蔵庫もない。

 テレビもない。

 炊飯器もない。

 当たり前だと思っていたものが、この世界には存在していない。

 それなのに、食べ物はちゃんと温かい。

「……不思議」

「何がですか?」

 向かいに座っていた楓さんが尋ねる。

「日本と似てるのに、全然違うなって」

「日本では、こういう食事はしないんですか?」

「します。むしろ普通です」

「そうですか」

 楓さんが笑う。

 その横で、紅蓮は黙々と食事をしていた。

 ほとんど音を立てない。

 姿勢もきれいだ。

 昨日は怖い人だと思ったけれど、こうして見ると妙に整った人だった。

 髪も。

 顔立ちも。

 手も。

 長い指が箸を持つたび、目がいってしまう。

「……何だ」

「え?」

「さっきから見てる」

「見てない!」

「見てた」

「……ちょっとだけ」

「何が」

「紅蓮って、綺麗な顔してるなって」

 言った瞬間。

 楓さんが吹き出した。

「ふふっ」

「楓さん、笑わないでください!」

「ごめんなさい」

 紅蓮は黙って私を見ていた。

「……変な奴」

「何それ!」

 でも。

 ほんの一瞬だけ。

 紅蓮の口元が緩んだように見えた。

 笑った?

 そう思ったときには、もういつもの無表情に戻っていた。

「……今、笑った?」

「笑ってない」

「笑ったよね?」

「知らない」

「絶対笑った!」

「うるさい」

「ひどい!」

 楓さんがまた笑う。

 そんなやり取りをしていると、不思議な気持ちになった。

 昨日までなら、こんな状況で笑う余裕なんてなかったはずなのに。

 少しだけ。

 ほんの少しだけ。

 ここで生きていけるかもしれない。

 そんな錯覚をしてしまった。

 ――でも。

「……帰りたい」

 ふと、その言葉が口から零れた。

 箸が止まる。

「知紘、大丈夫かな……」

 家族の顔が浮かんだ。

 私が突然いなくなったら。

 きっと、みんな心配する。

「帰る方法、探さなきゃ」

「……そうだな」

 紅蓮が答えた。

「え?」

「探す」

「紅蓮も?」

「俺が連れてきた」

「……でも、紅蓮だって分からないんでしょ?」

「ああ」

 短い返事。

 それでも。

「分からないから、探さない」とは言わなかった。

「ありがとう」

 そう言うと、紅蓮は箸を止めた。

「礼はいい」

「でも……」

「帰りたいんだろ」

「うん」

「なら、探す」

 それだけ。

 なのに。

 胸が少しだけ温かくなった。

* * *

 朝食を終えたあと、私は楓さんと一緒に東雲家へ向かった。

 東里家の家から少し離れた場所にあるらしい。

 歩いていると、見慣れない景色が続いていく。

 木造の家。

 雪の残る道。

 遠くには山。

 馬が荷物を運んでいる。

 着物姿の人もいれば、動きやすそうな服を着た人もいる。

 昔の日本に似ている。

 だけど、やっぱり違う。

 見慣れない世界。

 その中を歩いていると、ふいに楓さんが私の髪を見た。

「蘭さん」

「はい?」

「その髪……」

「髪?」

「とても珍しい色ですね」

 私は自分の髪を一房つまんだ。

 紫がかった黒。

 小さい頃からずっと、この色だった。

「そうですか?」

「ええ」

 楓さんは何かを考えるように、私の瞳を見る。

「目も……」

「目?」

「いえ」

 楓さんは微笑んだ。

「綺麗だと思っただけです」

「ありがとうございます」

 何でもない会話。

 でも。

 楓さんの表情には、一瞬だけ何かを知っているような色があった。

 それが何なのか。

 私はまだ知らなかった。

* * *

「ここが東雲家です」

 楓さんが足を止めた。

 目の前に広がる屋敷を見上げる。

 大きい。

 東里家とは明らかに違う。

 立派な門。

 広い庭。

 雪の向こうに続く建物。

「……すご」

「緊張していますか?」

「ちょっとだけ」

「大丈夫ですよ」

 楓さんが優しく笑った。

 門をくぐる。

 その瞬間だった。

「紅蓮様!」

 声がした。

 見ると、少し離れたところに一人の青年が立っていた。

 十八歳くらい。

 紅蓮より少し小柄で、真っ直ぐな瞳をしている。

「虎太」

 紅蓮が呼ぶ。

「お帰りなさいませ」

 そう言った青年――虎太くんは、私を見る。

「……こちらの方は?」

「昨日、紅蓮が連れてきた方です」

「そうでしたか」

 虎太くんが私に頭を下げる。

「東里虎太と申します」

「あ、涼風蘭です。よろしくお願いします」

「蘭様」

「様はいらないよ」

 思わず言う。

「私はそんな偉い人じゃないし」

「ですが……」

「蘭でいいよ」

 虎太くんが困ったように笑う。

「では……蘭さん」

「うん」

 そのやり取りを、少し離れた場所から紅蓮が見ていた。

「紅蓮?」

「……行くぞ」

「え、ちょっと待ってよ!」

 歩き出した紅蓮を追いかける。

 すると。

「兄上」

 廊下の向こうから、別の青年が現れた。

 紅蓮より一つ年上くらい。

 淡い栗色の髪。

 どこか儚げな雰囲気。

 身体は細く、顔色もあまりよくない。

 それでも、目元は優しかった。

「紅蓮、お帰り」

「兄上」

 紅蓮がそう呼んだ。

 青年は私を見る。

「君が……蘭ちゃん?」

「はい」

「初めまして。東雲伊織です」

「伊織さん、よろしくお願いします」

「こちらこそ」

 伊織さんは優しく笑った。

 その笑顔を見た瞬間。

 なぜか、少しだけ安心した。

 すると。

「兄上、紅蓮が困らせていませんか?」

「おい」

「だって紅蓮、昔から口が悪いから」

「兄上」

「ふふ」

 伊織さんが笑う。

 紅蓮は少しだけ不機嫌そうな顔をした。

「……昔から?」

 私が聞く。

「ええ」

 伊織さんは頷いた。

「でも、昔はもう少しよく笑っていたんですよ」

「……兄上」

 紅蓮の声が低くなる。

 伊織さんは、何かを察したように口を閉じた。

 その瞬間。

 私は気づいた。

 伊織さんが紅蓮を見る目に。

 ほんの少しだけ。

 ――罪悪感が混じっていた。

* * *

「蘭さん?」

「……あ」

 声に振り向く。

 今度は少女が立っていた。

 十六歳くらい。

 淡い栗色の長い髪。

 兄とよく似た、優しい茶色の瞳。

「私は澪です」

「澪ちゃん?」

「はい」

「よろしくね」

「……こちらこそ」

 澪ちゃんは、少し恥ずかしそうに笑った。

「蘭さんは……本当に日本から?」

「うん」

「どんなところなんですか?」

「え?」

「日本って」

 私は少し考えてから笑った。

「普通のところだよ」

「普通?」

「学校があって、コンビニがあって、スマホがあって、電車が走ってて……」

 話しているうちに、急に胸が苦しくなった。

 コンビニ。

 電車。

 学校。

 家。

 知紘。

「……帰りたい」

 また、呟いてしまう。

 澪ちゃんが悲しそうに私を見る。

「ごめんね」

「え?」

「……なんでもない」

 澪ちゃんは笑った。

 けれど。

 その笑顔も。

 どこか無理をしているように見えた。

 どうしてだろう。

 この家の人たちは、みんな優しい。

 なのに。

 誰もが何かを我慢している。

 そんな気がした。

* * *

 昼を過ぎた頃。

 私は一人で庭を歩いていた。

 知らない世界。

 知らない家。

 知らない人。

 少しずつ慣れてきた気がする。

 でも。

 帰りたい。

 その気持ちは消えなかった。

「……知紘」

 空を見上げる。

 青い。

 日本と同じ空。

 同じ太陽。

 同じ雪。

 それなのに。

 私の世界だけが、遠くなってしまった気がした。

「……帰れるよね」

 自分に言い聞かせる。

 そのとき。

 庭の奥に紅蓮がいるのが見えた。

 誰かと話している。

 相手は、まだ幼い子どもだった。

 何かを落としたらしい。

 紅蓮は無言でそれを拾い、子どもへ渡す。

「ありがとうございます!」

「走るな」

「はい!」

 子どもが笑って走っていく。

 紅蓮はその背中を見送る。

 そして、ふっと表情を緩めた。

「……やっぱり」

 優しい。

 昨日から感じていた違和感の正体が、少しだけ分かった気がした。

 紅蓮は怖い。

 口も悪い。

 無愛想だ。

 だけど。

 優しい人なんだ。

「紅蓮」

 呼ぶと、紅蓮が振り返った。

「何だ」

「さっき、子どもに優しかったね」

「……普通だ」

「普通じゃないよ」

「お前の基準を押しつけるな」

「でも、優しかった」

「…………」

 紅蓮が黙る。

 そして。

「……気をつけろ」

「え?」

「ここでは」

 紅蓮が私を見る。

「何も知らないお前が、一人で歩くな」

「心配してくれてるの?」

「違う」

「じゃあ何?」

「面倒だからだ」

「絶対嘘」

「……うるさい」

 紅蓮が歩き出す。

 私はその背中を追った。

「ねえ、紅蓮」

「何だ」

「昨日、胸を押さえてたよね」

 足が止まった。

「…………」

「痛いの?」

「何でもない」

「でも――」

「蘭」

 初めて。

 私の名前を、はっきり呼んだ。

「……それ以上、聞くな」

 振り返った紅蓮の瞳が。

 一瞬だけ。

 赤ではなく。

 その奥に、橙色の炎が揺れたように見えた。

「……紅蓮?」

 瞬きをする。

 もう、いつもの紅蓮色だった。

「今……」

「何でもない」

 紅蓮はそれだけ言うと、私から目を逸らした。

 その横顔が。

 ひどく苦しそうに見えた。

* * *

 その夜。

 私はなかなか眠れなかった。

 知らない天井。

 知らない匂い。

 知らない世界。

 目を閉じれば、家族の顔が浮かぶ。

 知紘は今頃どうしているだろう。

 お母さんは。

 ちゃんとご飯を食べているかな。

 私は布団の中で、スマートフォンを握りしめた。

「……会いたい」

 涙が一粒、頬を伝った。

 そのとき。

 ――ギシ。

 廊下から音がした。

「……?」

 誰かいる。

 私は布団から出て、そっと襖を開けた。

 廊下の先。

 月明かりの中に、人影があった。

「……紅蓮?」

 紅蓮だった。

 けれど。

 昼間とは、何かが違う。

 背中を丸め、片手で胸を押さえている。

「……っ」

 苦しそうな声。

「紅蓮!」

 駆け寄ろうとした瞬間。

「来るな!」

 鋭い声が飛んできた。

 足が止まる。

 紅蓮の身体が震えている。

「……何でもない」

「何でもないわけないでしょ!」

「戻れ」

「嫌だよ」

「蘭」

「だって、苦しそうじゃん!」

「……来るな」

 紅蓮が顔を上げた。

 その瞳は。

 真っ赤だった。

 いつもの紅蓮色より、ずっと濃い。

 その奥で。

 何かが燃えている。

 炎のような揺らめきが、瞳の奥から広がっていく。

「……っ」

 紅蓮が胸を押さえる。

「黙れ……」

「紅蓮?」

「……俺は」

 誰に向かって言っているのか分からない。

 私を見ているようで。

 私ではない何かを見ているようで。

「俺は、渡さない」

「……何を?」

 紅蓮の顔が歪んだ。

「蘭には――」

 そこで言葉が途切れる。

 次の瞬間。

 紅蓮の瞳から、炎の色が消えた。

 深い紅蓮色に戻る。

「……何でもない」

 いつもの声。

 いつもの顔。

 だけど。

 私はもう、知ってしまった。

 紅蓮の中には。

 私の知らない何かがいる。

 そしてきっと。

 それは、紅蓮自身が一番恐れているものだ。

 その夜。

 私は初めて――

 紅蓮という人間の中にある、深い闇を知った。

 まだ、その名前さえ知らない。

 それがいつか。

 私たち二人の運命を大きく変える存在になることも。

 このときの私は、何も知らなかった。