有名ブランドのショップは、もっときらびやかな照明で光があふれているのかと思ったが、意外にも落ち着いた光で、まぶしさも感じなかった。明るすぎるデパートの中で、薄暗く感じるくらいだ。
「どちらの方ですか?」
 私は宮部にだけ聞こえるように問いかけた。
「一番奥の女性です」
 宮部は囁き返した。
 最後の目撃者だという女性は、幸運にもエンゲージリングのコーナーに立っていた。
「作戦通りです。良いですね」
 私が言うと、宮部は少し困ったように頭を掻いた。
 いまさら怖気づいたのかと、私が視線を尖らせると、宮部は慌てて頭を横に振った。
「違います。彼女は、自分が警察官だと知っているので、とてもこのお店の婚約指輪なんて買えないって知っています」
 宮部の説明に、私は『馬鹿じゃないの!』と言いたくなったが、何とか言葉を取り繕った。
「私が見たいと言ったと言えばいいんです。それに、今日見て今日買うお客は普通いません」
 私の言葉に、宮部は心の中で『そういわれてみれば、そうだよな・・・・・・』などと、考えていた。
「さあ、行きましょう」
 私がもう一度声をかけると、宮部はごくりと唾を飲み込んでから、気合を入れて歩き始めた。
 ゆったりとした足取りでエンゲージリングのコーナーに歩み寄ると、何気ない様子で私は値札が見えないように並べられた指輪を眺めた。
 宮部の想像通り、周りに居る店員達が心の中で宮部のことを値踏みしている。
 『着古したスーツに磨り減った靴。安物のバックル。量販品のワイシャツに、お世辞にもお洒落とは言えないストライプのネクタイ。どれ一つとっても、この店には似つかわしくない。実は、お金持ちのご両親が居るなら別だけど、そうでなければ、一番小さい石が限界よね』
 宮部が商魂たくましいブランド店の店員の接客意欲を沸き立たせるようなお客ではないのは言うまでもない。それに、私自身、兄好みの可愛い服を着ているとはいえ、決してお金持ちに見える服装ではない。
 散々宮部と私の値踏みをした後、それぞれの店員が今度は私たちの容姿の値踏みを始めた。
 私にはよくわからないが、宮部はそれなりに顔立ちが整っているらしく、女性の店員からの評価はかなり良い。それに対して、私は子供っぽく見えているらしく、彼女たちの目には婚約する年には見えていないようだ。
 ガラスケースを眺めることしばらく、やっと男性店員が声をかけてくれた。
「婚約指輪でいらっしゃいますか?」
 不自然でない返事を期待していたのに、なぜか宮部は言葉がスムーズに出ないらしい。
「あの指輪が見たいって、私が彼にお願いしたんです」
 私の答えに、どうやらあまり乗り気でないように見える宮部の態度の意味を勝手に理解してくれたようで、このお店にしては驚くらい手頃な値段の指輪を幾つか取り出して見せてくれた。
 それは、宮部が値段で怖気づかないようにという配慮と、宮部に払えるのは、この程度の金額だろうという店員の独断によるものだ。
 それでも、指輪一つで三十万円。決して安い買い物ではない。
 それなのに、値札を見た宮部は以外にも『へえ、このお店にこんな安いのもあるんだ。これなら、自分にも買えるかもしれない』などと、呑気なことを考えている。
 まったく、どういう金銭感覚なんだろう。指輪一つにこんな大金。
 そんなことを考えている私に、店員が問いかけてきた。
「サイズはお分かりですか?」
 男の問いに、私は飾りっけのない自分の手を見つめた。
「実は、生まれて初めての指輪なんです。だから、サイズもわからなくて。でも、こちらのお店の広告を拝見して、デザインが素晴らしいと思ったんです」
 同じようにショーケースを見つめている近くの女性が考えていることをまるで自分の考えのように私が説明すると、男は採寸用のリングの束を取り出してから、私に左手を広げて見せるように言った。
 言われたとおりにすると、男は『失礼します』というと、束の中からリングを取り出して私の指にはめようとした。その瞬間、男の指が私の手に触れ、男の欲望が怒涛の如く頭の中に流れ込んで来た。
『こんなダサい男じゃ、まともな指輪も買えないだろうに。なんだって、こんな男とこんないい女が・・・・・・。』
 一流店だからと言って、働いているスタッフの人間性が一流というわけではない。流れ込んでくる不愉快な妄想に私は弾かれたように手を引っ込めた。
「紗綾樺さん?」
 驚いたような宮部の腕に私は顔を寄せて『この男の人に触られたくない』と囁いた。
「すいません。やはり男の方に触れられるのは抵抗があるようで、失礼します」
 宮部は言うと、男からリングの束を受け取り、私に手渡してくれた。
 事実、宮部の言葉は嘘ではない。私は兄以外の男性に触れられる事をとても不快に感じる。
 もしかしたら、相手が男性ならば仕方がない事なのかもしれないが、妄想の中とは言え、自分が辱められているのを目の当たりにするのは不愉快極まりない。
 そういう点、警察官だからなのか、宮部からはそういったいやらしい妄想を感じたことは一度もないし、洋服越しに触れても不愉快さを感じない。
「ちょうどいいのを探してください」
 優しく言われても、私にはサイズの検討もつかなかったので、とりあえず片っ端から指を入れてみることにした。その様子に男は呆れたように一歩後退すると、若い女性店員に対応を代わるように言った。
「申し訳ありません。私の方がお客様にもご不快な思いをさせないかと思いますので、交代させていただきます」
 笑みを浮かべて言った女性は、宮部の顔を見るなり驚いたような表情を浮かべた。
「刑事さん」
 漏れ出た言葉をかき消すように、宮部が『今日は結婚指輪を見に来ました』と言った。
 私は思わず『この馬鹿』と、心の中で呟いた。
 婚約指輪を見に来たはずの客が、いきなり結婚指輪に変わったら、絶対に疑われるに決まっているのに、まったくこの男、本当に警察官なのかしらと、私は聞こえないのを良いことに心の中で愚痴った。
「婚約指輪ではなく、結婚指輪ですか?」
 店員の戸惑いも当たり前だ。婚約指輪にふさわしいダイヤのソリティアリングの並んだショーケースの前で、結婚指輪といわれて困惑しない人のほうが少ないだろう。
 次の瞬間、彼女の考えがなだれ込んできた。
『この刑事さん、まさか私が誘拐犯とか疑ってるの? 勇気を出して協力したのに・・・・・・。』
 このままでは、彼女に逃げられてしまう。
「婚約指輪です・・・・・・」
 私は言いながら、そっと彼女のほうに頭を近づける。
「私、男の方が怖くて・・・・・・」
 彼女の顔が『可哀想に』という暗さを持った。
 たぶん、彼女のような普通の女性の場合、異性が怖くて交際をスムーズに進めて行かれないような私みたいな女性は、可哀相な女性の部類に入るのだろう。別に、兄がいてくれるから、他に男が必要な理由を私は感じていないのだけれど。
 私は少しきつめの指輪がはまった左手を彼女のほうに突き出した。
「ごめんなさい、初めての指輪なので、サイズがわからなくて。その、抜けなくなってしまったんです」
 正直に言えば、宮部が結婚指輪なんて言い出したせいで、びっくりした瞬間、思わず小さいサイズをはめてしまったのだ。
「失礼致します」
 彼女は言うと、まるでこわれものに触れるように私の手に触れた。
 本当は、誰とも肌を触れ合わせたくはない。でも、古くなった記憶をごっそりまとめて手に入れるには、これしかない。
 彼女が一生懸命、指輪を抜いてくれる間に、私は彼女の中の記憶を読み込んだ。


 『男の子は、まっすぐにデパートの中を抜けて出て行った。
 停まっている白いバンに向かって、引き寄せられるかのように、そうしたら、ドアーが開いた。スライドドアーだ。
 言葉を交わしている。でも、あの子はさっきお店の前を父親と通っていったはずなのに、入ったばかりで一人で出て行くのはおかしい。
 あの子の着ているTシャツ、おかしいと思ったら、女性モノの着古しだわ。子供用じゃなくて、大人用のが縮んだんだわ。
 え、乗ってしまうの、あの車はあの子がお店に来る前から停まってる。だとしたら、誰の車? どうして一人なの?

 警察が来て、あの子を探してる? 白いバンに乗ったまま、行方不明? でも、これ以上、面倒に巻き込まれたくない。へんな事言って、疑われたくない。偶然、見たことにしよう。そうじゃないと、疑われる。昔、傘を盗んだと疑われたときみたいに。
 もう、あんな思いしたくない。』


「痛くありませんか? お顔の色が優れませんが?」
 彼女の手が離れると同時に、思考からも切り離された。
「大丈夫?」
 宮部の顔が明らかに心配そうになっている。
 ああ、相当顔色が悪いんだ。酷く体も重い。
「ごめんなさい、気分が悪くなって。今日は、もう帰りたいです」
 嘘でも仮病でもなく、本音だった。
 これから、占いの館に出向いて、延々長蛇の列の人々を鑑定するのは、出来たら遠慮したい。
「すいません、今日は失礼します」
 宮部は丁寧に謝ると、指輪のサイズも訊かないまま、私の体を支えて店を後にした。
「どこかで休みますか?」
 宮部が気遣うように問いかけてきた。
「顔色がすごく悪いです。どこか座れるところを探しましょうか?」
 段々に宮部の声が遠くなっていく。
 足がもつれそうになりながらも、私は宮部に支えられて駐車場へと歩を進めるが、思うように進んでいないことは明白だ。それでも、私は一生懸命に駐車場を目指した。
「無理しないでください」
 宮部の心配げな声にも、応える余裕もない。そして、目の前がどんどん暗くなっていった瞬間、『コーン』という甲高い獣の鳴き声を聞いた気がした。 

☆☆☆

 突然、ガクリと膝をついた紗綾樺さんに、僕は驚いて彼女の顔を覗き込んだ。
 さっきまで蒼かった顔は、まるで土色のようで血の気がない。
「紗綾樺さん、大丈夫ですか?」
 声をかけても反応がないので、僕は仕方なく彼女の事を抱き上げた。
 救助訓練で抱いた人形よりも恐ろしく軽い。まるで空気のようだと思うと、訓練用の人形が取れだけ重く作られていたのだろうかなんて、つまらない考えまで次から次へと湧いてくる。
「紗綾樺さん!」
 名前を呼んでも反応しない彼女を抱いたまま、僕は人込みを走り抜けて愛車に急いだ。


 助手席に彼女を座らせ、シートを限界まで倒してみたが、気休めにしかならない。これがワンボックスなら、後部の座席でゆったりと横になれるのだろうが、そう都合よくはいかない。
 ポケットからハンカチを取り出し、車の中に常備している水のボトルを開け、三分の一ほどの水を捨ててからボトルを紗綾樺さんの口にあてた。
 こぼれないように注意しながら、ボトルを傾けて水を口の中に流し込む。
 コクリと小さな音がして、紗綾樺さんが水を飲んでくれているのが分かり、少しだけ僕は安心した。
 貧血だろうか、それとも、彼女のような特殊な力を持った人がこんな人込みの中に連れてきたのが間違いだったのだろうかと、僕は自問自答を繰り返したりした。
「紗綾樺さん」
 何度目かの呼びかけに彼女の瞼がかすかに動き、僕は心から安心した。

☆☆☆