「お兄ちゃん?」
 再び、さやの声に思考が中断された。
「悪い、覚えてないな」
 俺が正直に言うと、さやは『そっか』とだけ呟いた。そして、まっすぐに写真の所まで行くと、珍しく写真を手に取り、食い入るように見つめた。
「この子、助からなかったんだよね?」
 さやの問いに、俺はギクリとする。実は、良く調べもしないまま、どうせ助かったはずはないと、さやには『見つからなかった』と答えてあるが、実際のところはわからない。
「家も跡形もなかったからな」
 俺は注意深く言葉を選んだ。
「探せないかな?」
「おい、いきなりどうしたんだ? 人だってたくさん見つかってないのに、今更、犬を探すなんて無理だろう」
 俺の言葉に、さやは何か言いたげだったが、無言のまま写真を置いた。
「食事に行くか?」
 さやの着替えが終わっているので、俺は話題を変えようと問いかけた。
「そうだね」
 答えるさやの瞳は、まだ写真を見つめている。
「ほら、行くぞ」
 俺は立ち上がると、寂しげなさやの頭を優しく撫でた。
 大人二人が同時に靴を履けるほど広くない土間で靴をひっかけ、俺は玄関の外に出てさやが靴を履くのを待った。それから、ピッキングされたら十秒で開きそうな鍵を閉め、さやの先に立って階段を降りた。
 故郷を去る時、知り合いから譲り受けた車は、物価高の都会では維持できず、とっくに他人様の物になってしまっているので、大きな通り沿いにあるファミレスまでは歩きだ。
 さやの気分が沈んでいるからか、いつもよりファミレスが遠く感じる。
「星、見えないね」
 さやの言葉に、俺は『ここも一応都会だからな』と答え、立ち止まって空を見上げるさやの隣で歩を止めた。
「空が明るいね」
「こんど、星が見えるところに行くか? 山の上とか・・・・・・」
「歩いて?」
「いや、さすがに歩きはないだろう。この辺、山はないし。電車に乗って、どこか行ってみるか?」
「ファミレスあるかな?」
「いや、星が見える山の上にはないだろ、普通・・・・・・」
 今日のさやは、いつもより口数は多いのに、遥かに寂しげだった。
「思い出せるかな、昔の事・・・・・・」
 さやの言葉に、俺は心臓を掴まれたような衝撃を受けた。
 そう、今まで、さやは一度たりとも自分の過去を思い出したいと口にしたことがなかったからだ。だから、俺は故郷に未練を持たないさやにすべてを忘れたまま新しい人生を歩めるように、何の伝手もないこの大都会にやって来たのだ。
「そうだな、そのうち思い出すって、医師も言ってたからな」
 俺の言葉は、真っ赤な嘘だ。俺は、さやに過去を思い出してほしくないと思っている。昔のさやに、俺の知っているさやに戻って欲しいとは思っているが、過去を思い出してほしいわけではない。もし医師のいう事が正しければ、過去を思い出せば、さやはあの日何が起こったのか、あの衝撃的な自然現象を目にした全ての人の人生を、そしてその人の価値観すらも変えてしまった、あの恐ろしい瞬間を思い出すことになるからだ。
 俺は、遠くで見ていた俺ですら足が竦み、真っ暗な避難所で何の暖もなく凍えそうになりながら一睡もできずに過ごした夜の事を昨日のことのように鮮明に覚えている。たぶん、俺は死ぬまであの日の事を忘れることはできないだろう。例え百歳まで生きて、アルツハイマーになったとしても、夜な夜なあの日の夢を見ては目覚めるに違いないと確信している。
「お兄ちゃん、これからも、ずっと一緒だよね?」
 振り向いていうさやが、両親の葬儀の後のさやとダブって見えた。
「あたりまえだろ。さやは俺の大切な妹で、ただ一人の肉親なんだからな」
 俺は言いながら、優しくさやの肩を抱き寄せた。それは、兄と妹というよりも、傍から見たら恋人同士のように見えるかもしれない。
 俺とさやは、足早に歩み寄ってくる冬の気配を感じながら、お互いの存在をその体温で確かめ合うように、ファミレスへの道を歩いて行った。


 ファミレスの中は、それなりに混んでいたが、俺とさやは窓辺の禁煙席に案内された。
「えっと、イタリアンハンバーグ、ライス大盛り。それから、クラブハウスサンドイッチとオニオングラタンスープ。あと、ドリンクバーをつけてください」
 俺はバカの一つ覚えのように、メニューを見ずに注文した。いつも来る時間帯が同じだからか、見覚えのあるウェイターは、俺の早口の注文を手早く手元の端末から入力し、丁寧に確認した後、厨房の方へと姿を消した。
「さや、仕事に行かなくていいのか?」
 俺は素朴な疑問を口にした。
「お兄ちゃん、辞めてほしかったんでしょう?」
 さやは珍しく、問いかけに問いかけで返してきた。
「そうだな、あの仕事、さやにはきついだろうと思って」
 俺の正直な気持ちだった。
「見たくないものも沢山見えるし、知りたくないことも知ってしまうし、また心が辛くなって、さやが消えてしまったら困るからな」
 俺の言葉に、さやは少し首を傾げた。それが、悩んでいるのか、俺の言っていることがわからないという意味なのか、俺にはわからなかったが、さやは何も答えなかった。
「行きたくないなら、休んでおけばいいさ。それでお客が減ったら、さやも少しは楽だろう?」
 俺がわざと茶化して言うと、さやは少しだけ笑って見せた。
「私が楽なんじゃなくて、お兄ちゃんが楽なんでしょう。でも、税務署さんは悲しむかもね」
 さやの言葉に、俺は思わず声を出して笑い始めた。
 ちょうどそこへ、さやのオニオングラタンスープが運ばれてきた。
「いただきます」
 さやは言うと、目を輝かせながらスープを飲み始めた。その姿は、大好物のイチゴを頬張る昔のさやの姿にダブって見えた。
 そうだ、あの災害の後、昔のさやと今のさやが全くの別人に見えたことは度々あったが、昔のさやと今のさやがダブって見えることはなかった。もしかしたら、俺にはできないことをあの男にはできるのかもしれない。
 俺は次々と運ばれてくる料理をテーブルの上で並べなおし、『いただきます』と一声かけてから食べ始めた。しかし、食事をするときのさやは、まるで餌を捕まえた肉食獣のようにわき目も振らずに食べ物に向き合い続ける。この点にはなおる気配は感じられない。
 その時、俺はテーブルの上に置かれたさやのスマホのインジケーターが光っているのに気が付いた。
「さや、携帯光ってるぞ」
 俺が癖でスマホを携帯と言っても、さやはまったく意に介さない様子で、俺の方にスマホを押してよこした。
「何か最近、よく音がするんだけど、どうしたら良いかわからないの」
 さやの言葉を聞きながら、俺はさやのスマホを手に取った。
「ショートメールだな」
 俺は言うと、何も考えずにメールを開いた。そして、本文が目に入った途端、俺は慌てて目を逸らした。
「どうしたの?」
 さやは不思議そうに俺の事を見つめている。
「さや、お前、恋人(やつ)にメール読めないって話してないのか?」
 俺の言葉に、さやは驚いたように目を丸くした。
「メール? 教えてないよ」
「いや、ショートメールは、電話番号がわかれば送れるから、メールアドレスを教えなくても電話番号がわかれば送れるんだよ」
「そうなんだ。しらなかった。で、なんだって?」
 さやの問いに、俺はドギマギして、さやの方にスマホを返そうとした。
「使い方わからないし」
「いや、さや、メールってのは、一種の親書みたいなもんで、断りなく勝手に他人が読んでいいもんじゃないんだ」
「へんなの。お兄ちゃんだし、他人じゃないし、許可してるよ」
「いや、そういう事じゃなくて、恋人からのメール、兄貴に読ませないだろ、普通・・・・・・」
 俺はさやの説得を試みてみたが、さやは納得しそうもなかったので、仕方なくさやのスマホに届いていたメールに視線を戻した」
 どんな恋文かと思えば、宮部からのメールは淡白なものだった。
「紗綾樺さん、お加減大丈夫ですか? よかったら、お返事お待ちしてます。宮部だ、そうだ」
 俺がメールを読むと、さやは何も言わずにサンドイッチを手に取った。
「さや、メールの使い方教えてやろうか?」
「お兄ちゃん、メールしてもダメだって、連絡しておいて」
 さやは何事もなかったように言うが、俺は冷や汗をだらだらとかき始め、口にしたハンバーグのトマトソースの味もチーズの味も分からなくなっていた。
 俺が宮部にさやの携帯からメールを送れば、俺がさやのメールを見ていると宮部に誤解されることになる。この間のGPSの一件でも、やんわり警告を受けているのに、この上、メールまで勝手に見ていると思われたら、俺は奴に最低の人間というレッテルを貼られてしまう。しかし、さやは一切構わない雰囲気だ。
 仕方ないので、俺は言い訳がましく、『メールを使えない妹に頼まれてメールを確認しました。今後は電話での連絡をお願いします。天野目宗嗣』とだけ書いて送信した。
 俺の苦悩を知らず、さやは既にサンドイッチも平らげていた。
 もし俺が宮部だったら、このメールを読んだ瞬間、恥ずかしさで顔を真っ赤にして意味不明な言葉でも叫びながら、枕に頭を突っ込むだろうと思いながら、味のしなくなった夕食をひたすら口に運び続けた。


☆☆☆