「ねぇ。奥様の話をして。」

 突然の申し出に息を飲んだのが分かった。
 それでも拒否することはなく一呼吸おいてから静かに話してくれた。

「控えめで大人しい人でした。
 それで良かった。
 長男だから親とうまくやれる人。
 結局は親との同居はなかったですけど。」

「私とは正反対だわ。」

 改めて思うと不安に飲み込まれそうになる。
 穏やかな桜川さんには控えめな人がまさにぴったりの気がする。

「だから………今で良かった。
 若い頃ならお互いにあり得ないでしょう?」

 24、5の時に桜川さんは35、6。
 確かに日々飲み歩いて遊び呆けていた頃に30代後半のお堅い公務員なんて目もくれないだろう。

「だからってせめて10年前に出会っていたら………。」

「妻が亡くなって去年13回忌を終えました。
 父も母も亡くなって僕にはしがらみが全て無くなった。
 10年前ならもっと良かったでしょうが、今しかきっと僕は……友恵さんに惹かれたとしても追うことはできなかった。」

 奥様が亡くなってそんなに経っていたのだ。
 奥様に会う前に会うことができたら……。
 桜川さんが言うように若い頃に会っても無理なのだろうけど、それでも会いたかった。

 考えても無駄だと思うのに、浮かぶのは桜川さんが見たことのない奥様を情熱的に愛している姿。

 自分と同じように愛していたのか。
 それとも奥様には優しく穏やかな愛し方だったのか。

 取り留めのない嫉妬が後から後から沸いてきて自分は醜い独占欲の塊だと思い知らされる。

「私だけを愛して欲しかった。」

 口を出たわがままは叶えられることはない。

「友恵さんだけですよ。
 友恵さんは僕の全てですから。」

『今は』でしょ?
 いいの。分かってる。

 自分だって今までに経験がないわけじゃない。
 そういうものでしょ?と今までなら軽く受け流せるのに。