居酒屋の個室。
 個室というよりも『カップル席』だそうで横並びに座ると通路とは長めの暖簾で仕切られていた。

 カップルって何よ!
 なんて切り返す元気もなかった。

 穏やかな小川だと思っていた桜川さんは広大な草原のようなあたたかさだった。
 風のそよぐ草原は緑の葉が揺れて草の匂いが鼻をくすぐるそんな穏やかさ。

 会いたいと言った友恵に居場所だけ確認して駆けつけてくれた。
 ただ少しだけ居心地が悪そうに「風呂に入ってすぐでして」とだけ言って現れた。

 今もなお湿った髪も桜川さんと同じように居心地が悪そうに頭から滴を落とした。

 店員はギョッとしなかっただろうか。

 一緒にいて恥ずかしいというよりも何よりも駆けつけてくれたことが嬉しかった。


「大丈夫ですか?
 髪、濡れたままで。」

 ハンカチを差し出すけれど意味がないかもしれない。
 ハンカチで拭ききれるとは思えない。

「おじさんくさいですが、おしぼりで拭いても構いませんか?」

「いいですけど、おしぼりも濡れているから一緒なんじゃ。」

 目を丸くした桜川さんは乾いた笑いを出して「お借りします」とハンカチを手にした。

「動転しています。
 いつか電話をもしかしたらと携帯を肌身離さず持っていて。
 娘にまで最近すぐ電話に出ると言われる始末で。
 まさか本当に電話が………その、先に謝っておきます。」

 脈絡も何もない桜川さんはゆっくりと抱き寄せて優しくキスをした。
 長めのキスの後、名残惜しそうに離した桜川さんは「可愛くて……。我慢できなくて。すみません」とつぶやいてもう一度唇を重ねた。

 こういう時の桜川さんはイメージとはいつもかけ離れていてその度に驚く。
 穏やかさの中にこれほどの熱情がどこに隠されているのか。

 その熱に浮かされて友恵も言葉を発した。

「ホテル行きませんか?
 その……髪も濡れてますし。」

 抱き寄せていた腕に力が込めれた。

「いいんですか?食事がまだなんじゃ。」

 相談か何かをされるつもりで個室を選んでくれたのは分かる。
 泣き出すかもしれない友恵を気遣ったのだろう。

「我慢できなくて」と謝るほどなのに友恵に何かあったと察してホテルに連れていかなかった。
 その誠実さに友恵の方がほだされて離れられなくなっていた。