「大丈夫でしょうか。
 すみません。
 平日はどうしても小さな子達の溜まり場みたいになっていまして。」

 耳障りのいい落ち着いた声。
 穏やかな小川のせせらぎが目に浮かんで、さっきまでのは濁流だったんだろうと理解した。

 品のいい中年男性。
 歳の頃は同じか上くらいか。

 図書館の職員だろう『桜川』と書かれたネームプレートが胸元に下げられていた。

 よほど参っていたのか話しかけられるまで気配に気づかなかった。
 背後を取られたわけでもないのにギクリとする。

「いえ。大丈夫です。
 わざわざありがとうございます。」

 お礼をにこやかに言えば去って行く。はずだった。

 一向に私の前から消えてくれないのは幻想?
 いえいえ。そこまで耄碌していないわ。

「まだ何か?」

 いくら更年期が足音を立てやってきているからってパーフェクトな笑顔でお礼を言えている。
 プラスして早くそこから消えてくれないかしらと遠回しに言葉と振る舞いで伝えた。

 が、目の前からは綺麗に磨かれた革靴は離れていかなかった。

 あぁ。きっと綺麗な年相応に2人で歳を重ね合って寄り添っている素敵な奥様が磨いているんだろうな。
 あぁ。なのに私はどうして1人なんだろう。

 いいえ。関係ない事よ。

「失礼ですが、今、この瞬間だけ業務から逸脱してもよろしいでしょうか。」

「はい?」

 逸脱ってなんだか悪いことをするみたいな言い方………。

 手に紙を持ってこちらに差し出している。

 四角い紙は名刺サイズの大きさで薄くもなく厚くもなく表には『桜川 浩一』と書かれていた。

 だから名刺だ。

「仕事中なのでこれ以上は……。
 7時には終わりますので斜向かいの喫茶店で待っていていただけませんか。」

 それだけの台詞と1枚の名刺を残して返答する隙さえも与えられず彼はやっと去って行った。