「あ、そうかバイト中だったよねっ。ごめん本当にっ……!」
「大丈夫。酔っ払いに絡まれたって言えばいいから」
 日向君はまたグラス買いに来るね、と言って出口に向かった。
 ばいばい、そんな言葉よりも言わなきゃいけない言葉かあるのに、のどにつっかえて出ない。私は反射的に日向君の服のすそを引っ張り引き留めた。日向君は小首を傾げて不思議そうに私を見ている。駐輪場のときは素直に言えたのに、今となると少し照れる。私は精一杯声を振り絞って言った。
「あ、あの……ありがとうっ……日向君」
 背中を押してくれて。日向君はなぜか顔を伏せて「うん」とだけ呟いた。そうして、まるで闇の中に溶けるかのように日向君は店を出ていった。優しく、あたたかい感情が全身を流れている。ほっとしたように視線を落とすと、ひとつの破片が足元近くにあった。
「あれ、この割れたグラス、真っ赤な口紅がついてる……」
 そのときの私は、“赤い靴”の人が忍び寄っていることに、気づきもしなかったんだ。まるで、そんな私を後ろから嘲(あざ)笑(わら)うかのように、その影は近づいていた。