字を書いているときは、自分の腕の神経と、体の重心と、教室の空気と、墨の匂いが全てひとつになって、それ以外は無になれる。自分の心を研ぎ澄ませながら、たった数文字を完成させていくその時間が、私は好きだった。
「サエ、もたもたしてないで早くいくよ。いいポジション取られちゃうじゃん。私やだよ、窓際で書くのなんて、日焼けするもん」
 友人の梓(あずさ)は、真っ黒な髪の毛をひとつにしばり、腕のアクセサリーも外して、準備万端の様子で教室のドア付近に立っていた。書道部の部室のカーテンは薄く、運動部でもないのに窓際部員は日焼けするはめになったりするからだ。地黒であることを一番気にしている梓は、カリカリした様子で私が準備し終えるのを待っていた。
「ごめんごめん、昨日先生にもらった講評の紙、見つからなくてさ。先に行っててもいいよ」
 私はそう言ったけれど、梓は、昨日顧問の朝倉先生に叱られたばかりで、一人で向かうと確実に絡まれるので行きたくないらしい。急(せ)かされると余計に焦って判断能力が鈍ってしまう。
 普段は部室に習字道具を全部置きっ放しなのだけれど、昨日は作品提出が迫っていたため持ち帰ったのが悪かった。私は鞄に入れていた墨汁と、文鎮と、硯(すずり)など、邪魔なものを机の上に並べてから、鞄の中に手を突っ込んで、昨日ガサツにしまった講評用紙を探していた。すると、墨の匂いが染みついた鞄の奥底に、先生の独特な字が書かれた紙を見つけた。
「あ、あった。これこれ……!」
 そう喜んだ瞬間、私は思わず紙を持った腕を思い切り振り上げてしまった。何かが肘に当たり、それはどぷんと嫌な音を立てた。
 一気にザァーっと血の気が引いていくのが分かった。黒い液体がみるみるうちに広がって、ツンとした墨の香りが鼻をつく。状況を飲み込むのにかかった時間は約二秒。慌てて墨のボトルを立てたが、残った墨は半分以下になっていた。
「どうしよう梓、これ高級な紫紺系の墨だったのにっ」
「それよりどうすんのこの汚れ! なんでキャップちゃんと閉めてないの。しかも見事に日向(ひなた)の机にまでかかってるよ」
 隣の席の吉(よし)田(だ)は、まあいいとして、その前に天才君はどうしよう。絶対に怒られる。絶対、絶対、怒られる。急激に焦りの感情がわいてきて、手の平は既にかなり汗ばんでいた。
「ティッシュどこ!」
 パニック状態のまま叫ぶが、梓は漫才師のごとく鋭い切り返しをしてくる。
「あほ! ティッシュなんかで拭(ふ)き終わるか。雑巾持ってこい」
「はっ、そっか雑巾」